あげのウマ娘小説置き場

ウマ娘の小説を書きます。感想を頂けると嬉しいです。

ケイエスミラクルの彼岸

《center》〈第1章:蒼い言葉〉《/center》

[chapter:1.]

 メラメラと、ターフに蜃気楼が揺れている。赤い体操服を着た生徒達が我一番に芝を駆ける。尻尾をバサバサと振って、溜まった熱を外へ逃す。
 窓ガラスを通過して僅かに屈折する日光。ほとんど垂直といったその傾きは、ちょうど正午を示している。トレーナー室のデスクチェアに腰掛けるだけで、背筋にべっとりとした汗が滲む。
 毎年やってくる初夏の日差しは、その場に留まっている方が却って鬱陶しいものだ。ターフで走れたら、そよ風に当たれて幾らか涼しいというのに。
 生え際から滲み出た水滴が、ひたいにやたらと重くのしかかる。去年よりも熱を感じるのは、青空で鳴いているカラス達のせいなのだろうか。
 ふと、そんな考えが俺の頭をよぎった。

「暑ッつ……」

 ボヤく理由は単純だ。今年の初夏にエアコンが故障したのである。なんてことだろう。まったくもって不運としか言いようがない。
 俺は夏が嫌いだ。アイスコーヒーを何杯も飲むハメになるから。カフェインを過剰に接種すればトイレが近くなる。本当に仕事が捗らない。そのクセ廊下へ繰り出せば、暑い暑いと嘆くのだ。カァカァと鳴く、あの黒い喧騒達みたいに。
 そういうわけで、俺は保健室へと急いでいた。
 急ぐとは言えど、そこまで遠くない。ゆっくりと歩いても、せいぜい2分程度。目的地は1階にあるから階段を昇る必要もない。おでこに冷えピタでも貼り付けていれば、暑さも多少は和らぐだろう。そう考えていた。身体を冷やす前から汗をかきたくなかったので、俺は早歩きで向かっていた。
 1分と掛からずに到着。ドアノブを握ったら、扉の向こうからしゃくり声が聞こえた。
 ──どうやら先客がいるらしい。
 ドアの隙間から漏れている声が1つ。どうも聞き覚えがあるような気がする。それを予感と呼ぼうとしたら本能に邪魔された。戸を引いた途端に、それは確信に変わった。

「あれ」
「あっ」

 俺は、薄水色のショートヘアがよく似合う女性と目が合った。
 ──あぁ本当に、いつ見ても美しいヒトだと思う。
 ケイエスミラクルが医療用ベッドに座っていたのだ。彼女は瞳孔をハッと開かせて、手元の花瓶に目線を落とした。
 彼女の目尻が真っ赤に腫れている。果たして何をしていたのか。俺は聞かずとも理解できていた。きっと、泣いていたのだろう。間が悪いことだけは確かだった。

「えっと……」

 彼女が抱えていたソレはガラス製の花瓶だった。差し首が折れそうなくらい細長い。なみなみと張られた水面に3本の白い花々が浮かんでいる。茎が輪ゴムで束ねられていたから、1本であるかのように見えた。
 その花は──見覚えはあるけれど名前までは分からない。彼女が軽く会釈したら、胸に押された花びらもスラリとお辞儀をした。
 お互いに固まっていたら保健室の先生に促された。

「あの、どんな御用でしょうか?」
「あ、あぁ、いえ、その。冷えピタでも貰おうかなと思いまして。それでその、彼女は何を?」
「ミラクルさんはカスミソウを届けてくれたんですよ」
「そ、そうですか」

 カスミソウ? なぜその花を学園に? 
 聞きたい事が津波の如く押し寄せる。俺は錯綜する情報をひとつひとつ整理していた。しかしマナーを優先した結果、ミラクルの座るベッドまで歩み寄った。

「まぁなんだ、久しぶり。その、元気にしてた?」

 彼女は右肩に垂らした束ね髪を、人差し指でクルクルと巻いている。気まずい時にする癖だ。俺が担当していた時から変わっていない。彼女は気まずそうに答えた。

「そうですね、えぇ。まぁ……わりと」

 ミラクルと最後に顔を合わせたのは、一体いつのことだっだろうか。右手の指を折って数えてみれば、およそ3年ぶりの再会となる。
 色褪せて黒みを帯びたジーンズに、なめし革のジャケット姿。やはりパンツスタイルは、彼女らしいコーディネートだなと俺は思った。

「トレーナーさんは変わらないですね。いや、少しヒゲが伸びたのかな」
「うん、ミラクルもね。てか、どうしたの急に」
「……なんとなく来ちゃいました」
「そうか。でも、なんで今になって……」
「──ごめんなさい。それについては今度話しますから」

 ミラクルはベッドから立ち上がって、俺にペコリと頭を下げる。

「……うん」

 数年見ないうちに彼女はオトナになっていた。アイシャドウの薄まった目元は、垢抜けた証拠に違いない。
 しかし、指で擦ったような黒い跡が目尻まで一筋に伸びている。目元のアイシャドウが薄まったのは涙のせいなのか、歳を重ねたせいなのか。判断できなかったから、俺は尋ねる──までもなかった。彼女が自ら切り出した。

「みっともないところ、見られちゃいましたか?」

 赤く腫れた目尻を人差し指でさすりながら、パチリと大きく瞬いた。

「いや、見てない。見てないから」
「そうですか。でも、見なかったことにしてくれると嬉しいです」
「いやいや。本当だって」

 大人が1人で啜り泣くなんて、ワケがあるに違いない。

「まぁなんだ、その、大人だって泣きたくなる時くらいあると思うけどな。人間だし」
「ほらやっぱり。でも確かに、うーん……そうですかね?」

 彼女はクスリと誤魔化して、右腕を俺に伸ばした。5指をパッと開いて1つだけ要求する。

「左肩を貸して下さい。支えてくれると嬉しいです」

 足の裏を地面につけないよう浮かせつつ、ミラクルは俺の左肩に掴まった。彼女の右足がヒョコヒョコとびっこをひいている。保健室の先生に「松葉杖の代わりができました」とだけ。
 ほら行きますよ。
 背中をトンと押された。

「えっと。どこに?」
「少し付き合って下さい。この時間なら、お仕事は終わってますよね?」
「あぁ、まぁ良いけど」

 ミラクルは「ふふっ」と、軽くはにかんで続けた。

「本当は、会わないつもりだったんだけどな──」
「けど?」
「……いや、野暮ですね。気にしないで下さい。本当にくだらないことですから。さぁさぁ早く行きましょうか」

 半歩前に出られて俺は少し急かされた。冷えピタ貰い忘れたな。そんなことを考えながら、彼女の背中に追いついた。
 窓辺を彩ったカスミソウの残影を思い出す。
 ポタリ。
 彫刻のように真っ白な花びらから、透明な雫が滴った。

 

 目的地である府中駅に到着。その中でひっそりと佇むお花屋さん。俺たちは、そこに立ち寄るつもりだ。
 俺が知っているのは店名のみ。確か読み方は〈ラフラン〉だった筈。頭上の看板に筆記体で書かれている。過去に冷やかした試しすらない店だ。帰る頃にはシャッターが閉まっていたから、訪れる機会すらもなかった。
 ラフランは終電近くの殺風景であり、流し見る街の一部でもあった。そのお陰で店名だけは知っている。似たような人は他にもいるはずだ、恐らく。

「どうかしましたか?」
「ん。あぁいや。中に入るのは初めてでさ」
「そうなんですね。実はおれ、常連なんですよ」
「へー。意外」
トレセン学園にいた頃には無かった趣味ですもんね」
「……って、そうだよ。なんで急に居なくなったんだよ──?」

 ミラクルが突如として行方をくらましたのは、つい3年前のことだ。プライベートで食事に行くようになった矢先の出来事だった。最後のデートを境に既読すら付かなくなって、一方的にさようなら。
 なんで? どうして? 
 今でこそ立ち直れたけれど、当時は無力感に押しつぶされていた記憶がある。

「そうですね……まぁ立ち話もアレですし、歩きながら話しましょうか」

 ミラクルは右膝をぎこちなく折り曲げて、関節をコキリと鳴らす。
 また半歩前に出て、花の蜜が香る方へと俺を誘った。

「そうだね」
「ありがとうございます」

 店内は奥へと続いている。会話が外に漏れない程度には、奥行きがあるようだった。観葉植物から造花まで、ラインナップは申し分ない。
 最奥の棚には様々な種類の花が並べられていた。野に咲く雑草の類だったり、見たこともない種類の花だったり。値札のすぐ右横にラベルが貼られていたから、名前程度ならば分かった。生い立ちや近縁種なども書かれていたので、特に退屈はしなかった。
 人の気配から逃げるようにして、ミラクルは道の端へ寄っていく。声のトーンを落として、コッソリと打ち明けた。

「実は、両親が亡くなっていたんです」
「え──」

 自分でも分かるくらい、俺は頬が引き攣る感覚を覚えた。ミラクルは申し訳なさそうに、頬をポリポリと掻く。

「そんな顔をせずに。まぁでも、そういうことがあったんです」
「初耳だよ。相談でも何でもしてくれれば良かったのに」
「ごめんなさい。口座を引き継いだり水道やガスの名義を変えたり、色々と忙しかったんです。でもやっぱり、あの歳で公共料金を払いに行くのは辛かったなぁ」

 彼女が「それからは」と続けた。

「日本各地を旅していました。私と両親を生かしてくれた人達に感謝の気持ちを送るんです。お花を買って、それに込められた言葉を添えるんです。花言葉ってご存知ですか、トレーナーさん?」
「まぁ一応ね。詳しくはないけど。あっ、まさか、学園にいたのって」
「はい、そ一環です。カスミソウ、綺麗だったでしょう? えぇと……失踪の件については……まぁ、身内の葬儀に親族でもないトレーナーさんを巻き込むワケにもいかなかったので。どうか」

 ミラクルはペコリと頭を下げる。俺は少し懐疑的な返答をした。

「怒ってない、怒ってない。話してくれただけで十分嬉しいよ。今こうやって再会できたワケだし」

 この感情は怒りとも悲しみとも違う。本心でもなければ嘘でもない。しかし、そんな過去を打ち明けられた時点で、叱責や糾弾の選択肢は論外だ。
 一言くらい寄越しても良かったじゃないか。そんな野暮を垂れ流すほど、俺は無神経ではない。ゴクリと唾を飲み込んだ。

「そうですか。優しいですね、相変わらず」
「見透かされてる?」
「さぁ?」

 ふと足を止めると、そこには保健室で見た花が売られていた。花びらを指先でなぞった彼女は振り返る。

「トレーナーさん」
「ん?」
「1つ、ワガママを言って良いですか?」
「どうしよう」
「大した事ではないですよ」
「じゃあ」
「実は墓参りについて来てほしくて。一度だけでも手を合わせてくれれば、きっと両親も喜んでくれますから」

 トレーナーとして契約したならば、担当の両親とは切っても切れない関係になる。俺だって例に漏れない。少なからず、ケイエス家との交流はあった。
 彼女の母親は病院の中で春だけを過ごすヒトだった。空調が整備された白い牢獄の中で、いつもピアノを弾いていた。
 彼女の母から「娘を頼みますね」と託されたことを、俺は今でもハッキリと覚えている。

「もちろん。行こう」
「ありがとうございます」

 ミラクルは「うん」と頷いて、俺の左手を引いた。
 供える花を選びましょう。
 そんな、酷くやつれた言葉を口にした。

 

【カスミソウ:花言葉は“心からの感謝”──学園に居た頃の皆んなに感謝を込めて。綿毛のような花びらは純白に由来する。祝いの場にも適した花。再会の前途を示す】

 

 

 

[chapter:2.]

 俺がトレーナーとして担当を育てたのは、ミラクルで最後。それ以降は手に職が付かなかったというか、なんと言うか。少なくとも情けない話ではある。
 休日を容易に捻出できた。事務なんて前もって終わらせていれば何のその。焦らないで良いですよと言われたけれど、悠長に構えるつもりなどなかった。まだ太陽が高く公転する季節のうちに、俺とミラクルは再会した。
 東京医大病院前の裏手には、墓地が広がっている。霊園と言った方が的確なのかも知れない。そこは俗世から切り離された場所だ。ヒッソリと佇んでいる。
 ケイエス家の墓石は父と母で隣合っていた。片方は母方で、もう一方は父方だ。石碑に掘られた文字を見れば直ぐに判別できる。
 ミラクルは手を合わせて墓石に語りかけた。

「お母さん、トレーナーさんだよ。一緒に来たんだ」

 線香から昇る煙が空にユラユラと消えていく。桶の中で透明な膜がゆらり、揺らぐ。
 俺はひしゃくで救った水を、墓石の上から流しかけた。人の死を悼み、洗礼するのである。しんみりとした雰囲気の中で、俺は1つ気になったことがあった。手を合わせつつ尋ねた。

「これ、良かったのか? 彼岸花って供えるなら避けるべきなんじゃなかったっけ」

 母方の錆びた水鉢に、赤い彼岸花が生けられていたのだ。

「いえ、これで良いんです。母からの言いつけですから。生前から、この花を供えてくれと頼まれていたので」

 ミラクルは尖ったリコリスの花びらを、人差し指でそっと撫でた。

「そうなんだ」

 ピン、と反らせてから聞き返す。

「トレーナーさん、この子の花言葉はご存知ですか?」
「いや……分からないな。なんだろう。『不屈』とか?」
「惜しいですね。答えは『情熱』です。ピッタリですよね。きっと、真っ赤な花びらを喩えているんでしょうね」
「なるほど。その精神力は似てるかも」
「よくお母さんが『あなたにそっくりね』って、プレゼントしてくれたんです」
「へー。良いお母さんだったんだな」
「はい。まぁ彼岸花を供えるなんて、世間体から言えば有り得ない話ですよね。でも我が家においては、その限りじゃ無いんです」

 それはきっと、常識の範疇で語れないモノなのだと思う。俺の知り得ない約束があるのだろう。邪推が捗る。

「あのさ。聞いて良いのか分からないけどさ。その、両親は何で……」
 
 ミラクルは澄み切った空を見上げて、視線を切らないまま打ち明けた。

「そうですね……母は病気で逝きました。骨肉腫って癌です。父は、母の後を追いました。睡眠薬を1瓶飲み干して。おれが家に帰った時には、もう」

 本当に、余計なことを聞いたように思う。

「……そうか」

 遅い。

「まったく父も父で──。稼いだ賞金があるからって、おれはもう1人で生きていけるからって、何のために稼いだと思ってるんだよ。……バ鹿みたいですよね。おれの名誉が父を殺したんです。自分を変えたら大切な人が死にました」

「ごめんな……」
「気にしないで下さい。あぁ、でもまただ──。あの、少し、時間を下さい。少しだけ、本当に少しだけ」

 ミラクルは右膝をコキリと鳴らして、やりきれなさそうに目を伏せた。ギュッと、喉仏を振り搾る。

「ごめん……思い出させて」
「大丈夫です。すぐに終わりますから──」

 何も、言えない。
 返すべき言葉が見当たらない。

「また、みっともない所を見せちゃいますね。今回は見なかったことに、なんて。ハハッ。ごめんなさい」
「……謝るなよ。君は何も悪く無いだろ」
「そうですね。ごめんなさい」

 ──また、そうやって。
 ミラクルはフラフラと墓石の前にかがみ込んだ。揃えた両膝に顔面を埋めて、隙間を埋めるように右手で周りを覆う。左手の人差し指は、右足首に爪を立てていた。
 彼女は時折、どうしようもなくなるらしかった。記憶の底で朧げに眠る両親の残影を思い出して、そのつど泣いて、堪えて、飲み込んで。ぶつけどころの分からない怒りを、謝罪の言葉にすり替える。謝れば、神に許してもらえるかもしれないから、と。
 塵は積もれば山になるけれど、涙はどこにも積もらない。コンクリートの中に染み入って、溜まって溜まって──空に昇ったかと思えば雨粒となって落ちてくる。いつか耐えられなくなって、グチャグチャに氾濫するんだ。
 どこにも溜めていられないから、どこかで吐き出さないと壊れそうになるんだ、保健室の時みたいに。
 余った怒りは拳に込める。込めた恨みを右膝に向けて振り下ろす。振り下ろして、殴って、ぶつけていたら壊れた。壊した。そう説明された。
 きっと「いつものこと」なのだと思う。ミラクルは屈んだまま、内側に湾曲した右膝を何度も何度も殴りつけていた。
 ひとしきり泣いた後で歪んだ顔の涙を拭く。
 そこに、びっこを引く理由が滲んでいた。

「スッキリしたなぁ」

 嘘つくなよ。
 そうやって上から欺瞞を刷り込んで、無理やり精算したつもりになる。昔からそうだった。本当に、どうしようもないバ鹿だ君は。

「おれは未熟者だな。まったく」

 まだ殴り足りていないようだった。彼女の右拳が無造作に振り上げられている。振り下ろされることは明確だった。
 俺は咄嗟の判断ってやつをした。左手を割り込ませてクッションを敷く。振り下ろされた拳が俺の掌を叩き潰す。ゴツッと骨に当たる音がした。バッドで弾き飛ばされたような痺れが手の甲を駆け巡る。
 痛ェ。ウマ娘のパワーって、やっぱり規格外だな。
 当てる寸前に力を抜いたのだろうけど、痛いモンは痛い。

「あっ、えっ、あっ、ごめ──」

 ミラクルはバッと立ち上がった。右膝が追いついていない。バランスを崩す。咄嗟に俺の肩を掴んだ。俺の顔を見上げて、すぐに逸らした。
 目元のメイクが崩れていた。アイシャドウが、保健室で見た時よりも希薄になっていた。その薄まりが垢抜けた証拠ではなく、涙の果てであることを俺は知った。
 
「謝らないで。悲しい時にまで嘘をつくなんて、そんなの寂し過ぎるよ」

 鼻水を啜る音だけが聞こえる世界のなかで、俺は左手の痺れを噛み締めていた。
 泣きたいなら泣けば良い。1時間でも2時間でも気の済むまで。誰も怒らない。俺が隣に居れば、孤独を味わうよりはマシだと思う。

「みっともないな、本当に」

 ミラクルは日が暮れるまでずっと、ずっと、むせびっていた。積りに積もった本心を、必死に片付けているようだった。あぁ、陽の長い季節で良かったな。俺は寄り添うだけの時間が人を救うこともあるのだと知った。
 いつまでも、左手のひらがジンジンと痺れていた。でも刷り込まれた彼女の苦しみに比べれば、よほど生易しい痛みなのだろうと思った。

 

 歳月は人を変える。
 3年の月日は俺を抜き去る一方で、ミラクルの背中を追っていた。
 とは言えど、俺だって放置したつもりはない。連絡が途絶えてからは、どこか知らない土地で幸せになってくれたのだと思っていた。まさか、こんな事態になっているなんて。
 ──いや、言い訳だ。現実を受け止めろ。
 アイツが独り身になっていた以上、俺にも一介の責任はあるだろう。放置できるほど冷たくはない。
 墓参り以降も2人でやり取りを交わしていた。取り敢えず、LINEの返信は怠らないようにしていた。
 口ベタにも「また会おうよ」と誘ったら「気まずいですね」と返された。何も見てないよ。そんなメッセージを送った。保健室でしたように見てないフリをした。それは詭弁であって彼女も理解の上だろうが、嘘は白ければ許されると思っている。
 そういう努力をしたからか、俺達は再び会うことになった。トレーナーの業務もあったから、2週間後。彼女をOGとして学園に招待する。
 久しぶりに会ったミラクルは酷く、やつれて見えた。
 頬が少し、こけている。

「メシ食ってる?」
「最低限ですけど」
「1日何食?」
「1か2ですね」
「本当?」
「……最近は0か1です」
「オイ」
「いやぁ。食欲湧かなくて」
「仕方ないな。時間ある時は昼、こっちに食いに来な。おっけー?」
「それは悪いですよ。えっ──。今契約してる子、居ないんですか? 引く手数多だと思うのですが」
「あぁ……まぁ、誰かさんのおかげでな。責任とるつもりがあるなら、毎日来なさい。つか、今日も食べて行きな」
「うーん。なるほど?」

 半ば強制的に勧誘した。随分と下手くそな誘い文句だな、と俺は思った。彼女は現役から食が細かったが、流石にこれは。
 弁当を1つ作るのも2つ作るのも、手間は大して変わらない。次回から2個用意しよう。今日は俺の分しか無い。だから譲ることにした。
 唐揚げ弁当を広げて、ミラクルは学生時代へと逆戻り。食べ途中でガラスケースの方を指差して、言った。

「おれとのトロフィー、まだ飾ってるんですね」
「当たり前だろ」
「今だからこそ聞けますけど、何でおれを選んだんですか? 他にも有馬記念を目指してる娘とか、URAファイナルズを目指してる娘とか、色々といたのに」
「何でって。そりゃ才能の原石が転がってたら、誰だって磨きたくなるだろ」

 得意げに胸を張ったら、ミラクルはクスリと綻んだ。

「ありがとうございます。リップサービスがお上手ですね」
「本心だよ。心の底からそう思ってる」

 この娘はデビュー戦を勝利したレースでも、1人でポツンと佇んでいた。ターフの王女だったにも関わらず、まるで売り残った商品ように独りぼっちだった。
 スプリンターは華がなくて不人気なのだ。注目されるレースは中長距離が殆どである。それに加えて、彼女は脚にハンデを背負っているから尚のこと。

「本当に感謝してます。『ありがとうございます』なんて言葉だけでは到底伝えきれないですが。何でしょう、こう……伝わって下さい」
「ん」

 俺はグッと親指を立てた。それを見るなり彼女は唐揚げを摘み上げて小分けに齧っていく。
 飲み込んで、箸を置いて、言った。

「実は……デビュー前でも声をかけてくれる人は何人か居たんですよ。でも脚に爆弾を抱えてるって言った途端に──。まぁ、全て過去の話ですが」
「ダイナマイトでも手榴弾でも、爆破させなきゃ置き物と変わらないよ。むしろ美品としての価値がある。しかもミラクルは結果出してるじゃんか。そいつらの見る目が無かった。それだけのことだよ」
「皆さんビックリしていましたし、そういう意味では勝って良かったのかもしれません。それこそ、名誉の正しい使い方です」
「あ、ごめん」
「大丈夫ですよ。墓参り以降、少し気が楽になったので」

 俺は、1つ提案をした。

「もう謝んなくて良いからね。謝罪禁止! これからは謝罪禁止令を発令します。俺といる時はラフでいて欲しい」

 ミラクルは「アハハ」と笑って肯定した。

「はい。素直になろうと思います」
「でも、どうしても悲しい時は泣こう。謝らずに」
「そうですね。多分もう、大丈夫です。ご馳走様でした」

 最後の1ピースを頬張って、そっと両手を合わせた。少しは顔色が良くなったように見える。完食していたから食欲はあるらしい。
 その日以降トレーナー室に来る時は、彼女から連絡をくれるようになった。LINEの通知が鳴る度に、2つの弁当箱に唐揚げを詰めるのだ。
 トレーナー室の冷蔵庫で保管していると揚げ物の油分が凝固する。ミラクルは最初こそ胃もたれしていたようだったけれど、これも歳月が人を変えた。
 時の流れとは、本来こうあるべきなのだ。そう思った。

 

【赤の彼岸花:花言葉は“情熱”──花弁の先端に毒を含む。学生時代の、まるで死に物狂いだったケイエスミラクルに似ている花。その美しさの中に、どこか危うさを秘めている】

 

 

 

[chapter:3.]

 感謝の旅路は夢半ば。今日もラフランの前で、俺はミラクルを待っている。
 11:00にOPEN。俺達は開店と同時に訪れた。昼間に来店するのは初めてのことだ。前に来た時よりも賑わっている印象を受けた。どの花屋も季節ごとに雰囲気をガラリと変える。ラフランの内装も前回とは異なっている。
 購入後は、かつて彼女の母親が入院していた病院へと向かう予定だ。それは俺の知らない幼き日の記憶。彼女は人生の半分を、その病院で過ごしたと言っていた。彼女は花の値札を指でなぞりながら、俺に滔々と告げる。

「入院していた頃は顔見知りもいたんですよ。個室とはいえ本を読んでいられるほど、幼い頃のおれは大人しくなかったので。各階の病室に出向いてお菓子を貰ったり走り回ったり……。実は結構怒られてましたね」
「へぇ、意外。その人達とは今も連絡取ってるの?」
「はい。だからこそ退院された方々も含めて、感謝の気持ちを送ってるんですよ。亡くなられてしまった方には、遺族様が了承してくれた範囲で、この子達を供えてます」
「なるほどね。そういうとこマメだよな」
「これが、おれに出来る最大限の感謝ですからね」

 ミラクルは黄色のマリーゴールドを手に取って、続けた。

「今日はこの子にしましょうか」
「良いね。元気出そう」
「子供達もいるので、少し多めに買って行きましょうか」

 在庫まで含めて十数個を購入。俺は荷物持ちだった。
 土の重みは侮れない。ただのコンクリート街道がトレーニングコースになった。疲れたら、持ち替えたり地面に置いたりして休んでいた。明日は全身筋肉痛で確定だ。
 病院の最寄駅までは地下鉄を使う。アナウンスの「東京医大病院前です」は、停車駅が西新宿であることを示している。あの墓地の裏側だ。いや、表と言った方が正しいか。そこで降りた。
 石で満たされた空間は弔いの場だ。手を尽くしきれなかった亡き骸が、今も静かに眠っている。かつてミラクルの母親も、表側の白い監獄で長い春を過ごしていた。
 病院の自動ドアを抜けると、そこには待合室が広がっている。幼稚園児が鬼ごっこができるくらいにはスペースに余裕があった。俺たちはグルリと一望して空席を探し当てた。
 平日であれど、日本で最大規模の病院であれば混雑にも納得できる。列ができていたから受付まで少し時間がある。荷物を置くために、俺は席を確保した。手続きはミラクルに任せる。
 型の落ちた液晶テレビが、受け付けの真上に設置されていた。体重を、ロビーチェアの背もたれに預けていれば見られる高さ。俺はその垂れ流されたワイドショーを、ただボンヤリと眺めていた。内容としては最近オープンしたパン屋の話題だったり、女優がした映画の宣伝だったり。いかにもアドリブ感を演出をしているけれど、本当は台本で塗り固められているシナリオだった。面白味はない。
 だが脚本に書かれたシナリオも、この場においては必要なのかもしれない。不自然なくらいにポジティブだから。歩行器や細い管を携えた人を見てばかりでは、気が滅入るだろう。コマーシャルに入ったタイミングで、ミラクルに呼び出された。

「トレーナーさん。持ってきて下さい」

 彼女は軽く手を振って指示を出す。俺はプランターから1つ取り出して、受付のカウンターに持って行った。

「これ、どうぞ」

 マリーゴールドを手渡した。看護師さんに「飾っておきますね」と言われた。気に入ったようで、少し安心。
 俺は残された十数個を、院内で配る旨を説明した。了承。そしたらカードキーを渡された。俺の手持ちをチラリと確認して、ミラクルは気を利かせた。

「まずはお母さんの部屋に行きましょうか。それ重いですよね、持たせてしまって申し訳ないです」
「気にすんな」

 0856室。8階の角部屋だ。それが母さんの闘っていた部屋だとミラクルは言う。4桁の病室番号は俺も初めて見る。エントランスに張り出された見取り図でも探し当てるのに苦労した。ミラクルの脚が悪かったから、俺達はエレベーターで移動する。8階に登って廊下を進む。
 死期を受け入れた患者さんは、自ら高層階を望むと言う。天国に近いからなのだろうか。
 空へ昇るほど、廊下の電灯は薄暗くなった。人の往来も少ない。受付ではあれほど子供達の走り回る音が聞こえていたのに、ここではスリッパの足音すら響いている。
 病人のためにデザインされた扉は軽かった。少し力を入れただけで、左にスライドした。番号横のネームプレートには「ケイエス様」と記されている。

「どうぞ」
「お邪魔します」

 半開きのガラス窓から、ぬるい隙間風が抜けている。微かに揺れる白いカーテン。ウッドデッキの木目を、そよそよと撫でている。その上で佇む金魚鉢に一輪の彼岸花が浮かんでいた。
 白色で統一されたタオルケットが、ダラリとめくれている。まるで、立ち上がるために腕で払いのけたようだった。
 医療用ベッドの左手側に、組み立て式の車椅子が置かれている。俺が持ち手を握ると、ギィと軋んだ。ブレーキが固い。折り畳まれずに幾星霜。

「ついさっきまで人がいたみたいだな」
「よく言われます」
「やっぱり意図的に?」
「はい。お母さんの最期の瞬間を保存しているんです。そのまま」

 ミラクルは金魚鉢の水を流しに捨ててから続ける。

「お母さん、手術で亡くなったんです。それも緊急の。その掛け布団、酷い有り様でしょう? 当然お母さんが、1人で車椅子に乗れるワケも無かったので、おれが乗せたんですよ。アレは焦ったなぁ」
「いやそれサラッと言ってるけど……」
「確かに良い思い出──とは言えませんけど、まぁ、平気ですよ。ここに来れば、あの浮き出た骨の感触を思い出せるんです。当時は嫌で嫌で仕方無かったですが、今となっては。なんと言うんでしょう。お母さんがいるような感覚になれるんです」

 0856室は時がピタリと止まっていた。その中で唯一、見舞いの花だけが枯れながら未来へと進んでいる。排水溝に散った花びらは、絵の具を吸ったように黒ずんでいた。
 俺は長居するのも気が引けた。だから「そろそろ行こう」と言った。ミラクルは頷いて、その車椅子に座った。

「押してください。膝がこんななので、歩けるとはいえ車椅子の方が楽なんですよ」
「ん」
 
 院内を巡ることになった。あれほど重かった黄色い植木鉢たちは、彼女の腿の上。知り合いの面々は、各階に居ると彼女は言った。
 最上階──9階は屋上庭園で、8階までが病室だ。下った方が効率は良い。7階から訪問することにした。
 やはり上の階は年齢層が高い。1人目は、肌の所々に黄疸が目立つお爺さんだった。ミラクルは入室するなり仲良さげに話しかける。

「お久しぶりです。お元気でしたか?」
「久しぶり。おや、ケイエスさん……と?」
「おれの元トレーナーさんです。それと、今日はマリーゴールドを持ってきました」
「おぉ、いつもいつもありがとう。まるでじぃの肌みたいな色の花だな。あっはっは」

 笑えない。でもミラクルは「すごい偶然ですね」と、こともなげに返していた。第3者から見れば随分と黒いジョークである。お爺さんが窓の外を見ながら言った。

「まぁ、ウイスキーを飲むまでは死にきれんけどな」
「ダメですよ肝臓悪いんですから。長生きしてください」
「わかってる分かってる。しかし、そうやって藁に縋ってる奴ほど死なんのさ。逆に、ソレを与えられたらポックリ逝っちまうんだけどな。俺も今酒飲んだら、怪しいな」
「本当に。つい最近、屋上でタバコをふかした人が居たんですけど。その人、翌日に旅立ったらしくて」
「そうだろうよ。最期のタバコはさぞかし美味かったんだろうなぁ……」
「まさしく天にも昇る味、ですかね」
「上手いっ! それだ!」

 お爺さんはケラケラと笑いながら膝を叩く。それに釣られてミラクルも微笑んでいた。
 不謹慎と言われかねない会話の右往左往。俺は、まるでついて行けなかった。彼女の顔見知りは俺にとっての初対面。事実を痛感する。
 ミラクルが平然と母の死について語ったのは、こういった影響もあるのだろうか? 恐らく死期を悟った人達は、隠し事をしないんだ。笑ってくれた方が、本人も幸せなのだろう。皆がそれぞれの藁を紡いで。結ばれたら天国へ旅立つ。
 それがここの常識なのだ。俺はそう考えた。
 その考え方は正しかった。お爺さんから小学生と思わしき女の子まで年齢も性別も関係無い。共通していたのは人生観。誰1人として人生を諦めていなかった。例の花を手渡せば、それこそ咲いたような笑顔を見せた。
 天国に近いから──その解釈は間違っていたようである。
 配って歩くうちに、車椅子が段々と軽くなる。滞りなく進んだから、1時間もしないうちに周り終えた。3階。小中学生が多い階層で、ある女の子からリクエストを受けた。

「おねぇちゃんピアノ弾かないの? わたし聴きたいな」

 ミラクルはポン、と少女の頭に手を置いて「おいで」と誘った。連れて行かれた先は1階のホール。再来受付機のすぐ右横に、グランドピアノが設置されている。1曲だけだよ。そう言って、ミラクルはトムソンイスに腰掛けた。スゥと息を吸い込んで鍵盤板を持ち上げた。
 埃ひとつ無い、隅々まで手入れの行き届いた鍵盤板。

「お母さんがいつも弾いていた曲です」

 その細い指が、白い鍵盤を押し込んだ。ポロロンと、調律された音色がホール全体に響き渡る。俺でさえ聞き覚えがあった。曲名は確か

ノクターン:第2番」

 フレデリック・ショパンの傑作。別れの曲だったはずだ。
 テレビの雑音や子供がドタバタと走り抜ける音を揃えながら、彼女は指を綴る。途切れず滑かにテンポ良く。調子の合わない喧騒をピシリと整える。
 多分5分くらいだったと思う。時間感覚が鈍るくらい、俺は深く耳を傾けていた。
 初めの1分間は振り返る人がいた程度。受付に並ぶ人が視線を向ける。3分経つと、足を止める人がいた。空いた席に座って、音の聴こえる方を見る。終盤へ近づくに連れて、次第に席が埋まっていった。その中には目を閉じる者もいれば、頷くものもいた。誰1人として、テレビに視線を向けることなく。
 足を止めた男の子は言った。俺、この曲知ってる。
 足を止めた者は皆、そこに幻影を見たのだと思う。水色の髪が綺麗な、ミラクルに良く似た別人の。
 いわゆる“懐かしい”って感覚だ。お母さんが良く弾いていたならば、聞き馴染んだヒトもいるだろう。そんな旋律がパタリと途絶えたら、誰だって不幸を察せずにはいられないだろう。

 寛解したのかな──いや娘さんか。あぁ、そうなのか。

 ミラクルはそうやって、皆に母の訃報を告げているのだ。彼女と俺しか知り得ない便りを配って歩く。この曲は、ある意味でレクイエムなのかもしれない。
 奏で終えた時、そこはコンサートホールだった。パチパチと、絶え間ない拍手が沸き起こっていた。決してプロが受けるような称賛ではなかったけれど、その熱はしばらく、残っていた。
 ミラクルは照れ臭そうに頭を掻きながら、俺の元へと戻ってきた。最高だったよ。その一言で、にへらと笑う。

「トレーナーさんに言われると、背中がムズムズしますね」
「褒めてるのに」
「えぇ。純粋に嬉しいです。なんだかお母さんが褒められてるみたいで」
「君の実力じゃないか」
「そうだと良いんですけどね」

 多分この子は、その拍手が幻影に向けられていることを理解しているんだ。バックサポートに背中をグリグリと擦り付けて「次は何号室でしたっけ?」と誤魔化した。
 俺はグリップを握って、車椅子を前に押し出した。残されたマリーゴールドは相も変わらず膝の上。ミラクルはうっすらと目を細めて、我が子のように抱いていた。

 

【黄色のマリーゴールド:花言葉は“元気”──前を向いて欲しい。元気でいられますように。明るい願いを込めて贈られる花。笑っていよう、いつまでも】

 

 

[chapter:4.]

 デートをしませんか。トレーナー室でそう誘われたのは11月初旬のこと。この生活にも慣れてきた折に受けたお誘いだった。随分と唐突だな、と俺は思った。確かに、ミラクルにはプリンスの素質があったけれど。
 デート──普段とは異なる言い回しだったから確認した。
 
「旅とは違うの?」

 曖昧にも「半分正解です」と言われた。半分とは? まぁ、断る理由はない。3つ返事くらいで了承した。疑問は残るけれど抵抗は無かった。むしろ幸運だったとさえ思える。
 それを「突然どうしたの?」と訊ねるほど愚かな俺ではない。文面上はそつなく対応したつもりだ。

『今まで付き合わせてしまったので、そのお礼です。エスコートは任せてください。おれ、美味しいイタリアンを知ってるんです』

 ふむ。
 なるほど。
 俺よりもずっとイケメンだ。普通は逆じゃないか? だがしかし、保健室で再会して以降は俺ばかりが手を引き続けていたように思う。まぁ、たまには。
 疑問符が浮かんだままだったけれど、俺は彼女の好意を素直に受け取ることにした。11月20日。それが約束の日だった。まずは着る服を選ぶところから。そうだ、いつもよりオシャレな格好をしよう。
 府中駅の17時45分。北改札は、サラリーマンと制服を着た学生で埋め尽くされていた。退勤ラッシュが予想される。俺達はその波に逆らって、夜の街へと足を伸ばす。
 俺が着いたのは約束の5分前。ミラクルは少し早く来ていたようだった。どれだけの人がごった返していようとも、俺なら見慣れた水色の髪をすぐに見つけられる。彼女は改札を出て少し進んだベンチに座っていた。
 
「やほ」

 俺が声をかけると、黄色いイヤーカフを付けたミミがピクンと跳ねる。呼ばれた張本人は面をあげる。

「あ、どうも」

 ミラクルは学生時代と同じ私服を着ていた。白ジーンズに水色シャツをin。学生時代は、その大人びた服装に彼女自身が着られているように見えていたけれど、今は年齢が追いついている。僅かな違和感も覚えなかった。
 しまった、ミスったか? 
 俺はクリスマスシーズンに着るような黒いロングコートを着ていた。ヘアスタイリングまでバッチリで、少し浮き足立ってしまったように思った。
 そんなこと、口には出さないけれど。

「お、似合ってるね。いつぶりだろう」
「サイズが変わらないので。懐かしいかなと思って着てみました。やっぱり、昔の服を着るってのは勇気が要りますね」

 彼女の背格好が変わらずとも、メイクはピシリと整っている。反り返ったまつ毛と、薄ピンク色のリップクリームには見覚えがない。少なくとも、学生の頃には。だからこそ一方的にデートの意味を履き違えたワケではないと思う、多分。

「そのコート、格好いいですね」

 少し、ドキッとした。自分でも分かるくらい目が泳いだ。ミラクルはイタズラっぽく左腕を絡めて来た。行きましょう、と腕を引く。

「さんきゅ」

 返す言葉が見当たらないや。年甲斐も無いことを思う。必要最低限だけ返したら、あとは全部わからなかった。妙な間が空いたら、俺は誤魔化すことしかできなかった。ミラクルと腕を組みながら、夕べの街へと繰り出した。
 キラキラと、マンションの2枚窓が夕暮れを置き忘れた色に染まっている。半月の太陽は、地平線の向こう側へと欠けていく。3色の信号機が、高層ビルの航空障害灯と共に明滅を繰り返す。黒い翼の持ち主は、カーカーと鳴きながら夜の訪れを告げていた。ビルの隙間に冬の風が吹いている。
 寒いね。
 俺は嘘をついた。ミラクルは腕を寄せて「もう少しですから」と言った。俺はその「もう少し」をわざとらしく解釈したかった。そうやって私欲を含んだ時に限って、時間の経過は早いんだ。1分くらいで着いた。
 到着した店の看板は、イタリア語で記されていた。きっと店名なのだろうけど、読めなかった。コース予約。席には銀色の食器が並べられていた。スプーンだったりフォークだったり丸皿だったり。

「ここ、父がプロポーズの時に選んだお店なんです」

 ──ドクン。
 心臓の高鳴る音がする。ミラクルは探れない一方で、読み取るべきセリフを口にした。
 昔からそうだ。
 時々こういうことをする。

「そうなんだ。半分正解ってのは、そういうことね」
「はい。お花はありませんけど供養になれば良いなと思って」
「へぇ」

 本当に会話ベタである。いつもならば冗談の1つでも叩けたものを。俺は前菜のレタスに、フォークをグサリと刺し込んだ。ジッと見ていたら不思議そうに聞かれた。

「おれの顔に何かついてますか?」
「んー。いや、変わったなぁって。全体的に」
「メイクのおかげですかね? 化粧のアレやこれはルビーから習いました。おれ下手くそだったので」

 貴公子と謳われていた彼女は、今もなお健在だ。メイクなど不必要だと思う。今日は少し濃いくらいだ。溜息すら出そうになる。
 はぁ。
 勝手に出た。

「ほんと、敵わないよ」

 メインディッシュは肉料理だ。どの料理名もカタカナばかり。薄暗い店内も相まって“オシャレ”の代名詞的な雰囲気だった。ウマスタグラムにでも載せれば、きっと沢山のウマいねが寄せられるのだろう。俺は、そんなどうでも良いことを考えた。酔いが回ってるな。饒舌になった気もしている。昔話に花を咲かせているうちに話は佳境を迎えた。
 ミラクルはカチャリとナイフに持ち直して、俺の目をジッと見つめ返した。

「トレーナーさん。“わたし”のこと、どう思ってましたか?」

 彼女はナイフの刃を黒い塊に押し当てる。側面に光るデミグラスソースが、銀色の皿をてらりと塗り上げた。

「どう思ってた、か」

 1人称が、変わっていた。ズルいって流石に。
 学園にいた頃か、失踪してしばらく経った頃か。彼女が期間を限定しなかったのは──多分、そこに普遍を信じたからだった。

「大切なヒトだったよ。今も昔も。うん、変わらない」

 だから、俺は曖昧なコトバを返す。花言葉みたいに隠してみる。伝わろうか伝わらまいが、それは俺にとって重要な問題では無かった。それは過去の轍。
 受け取った本人は手を止めて、頬を緩めた。ここに来た甲斐がありました。成果を口にする。「じゃあ」と続けた。

「あえて言っても良いですか?」

 あぁ、来るな。確信だった。
 ひと口のワインを喉に流し込んで、彼女は言い放った。

 

 


「ごめんなさい。これで最後にしましょうか」

 

 


 ──は?
 絶望とか焦燥とかよりも先に、疑念が頭をよぎった。
 あの前振りは一体?
 告白する前にフラれた。そんな感覚に支配されていた。
 理屈は分かる。展開が急過ぎたのだ。分かる。
 いや、だがしかし。

「何で、そんなこと言うんだよ」
「違うからです」
「……違うって、何が?」
「トレーナーさんが抱いてる感情はきっと、愛情ではなく哀れみなんです。“あい”の字を間違えているだけですよ」
「いや──」
「さぞかし哀れに映ったんだと思います。まぁ否定はしませんし、出来ません。それでも、おれは悲劇のヒロインになんてなれなかったんです」

 愛情と哀情。その相反する単語が、喉の奥にピタリと貼り付いた。正反対な漢字2文字は表裏一体だ。裏返していたことに気がつけないなら、それは透けているも同然だった。
 だったら、そんな思わせぶりな態度を取らなくても良いじゃないか。そんな子供じみた感想を抱く。俺は暫く、相槌を打てないままでいた。

「ごめんなさい」

 謝罪禁止令を破られたのは、これが初めてだった。ミラクルは残った赤ワインをぐいと流し込む。俺もアルコールで茶を濁した。ザラついた苦味だけが、やたらと舌に残るだけだった。微塵も濁せていない。

「『ヒロインになれなかったって』何? 分 何で君はそうやって、重要なことを言わないの? 分からないよ。失踪した時だってそうだよ。なぜ直ぐ言わなかったんだ。つい最近になって『両親が亡くなったんです』とか言って。確かに他人だし仕方ないよ。仕方ないけどさ、そんな簡単に納得できるワケもないじゃん」
「納得してほしいとは思ってないです。出来るハズもないので」

 少し、引っかかる物言いだった。

「その言い方だと、なにか理由があるってことだよね?」

 彼女は「しまった」とばかりに、瞼をハッと広げた。
 理詰めは性に合わない。でも、それが大人にできる最大限の武器であり、駄々だった。

「無いです」
「嘘だ」
「嘘じゃないです」
「せめて聞かせてよ」
「嫌です」
「ホラあるじゃん」
「しつこいですよ」

 それで良い。俺は何度も懇願した。周りから見ても、確実にメンタルヘルス野郎だったと思う。埒が開かないので、切り札を使う。

「今まで旅に付き合ったんだから、その分の謝礼というか、礼儀くらいはあっても良いんじゃないの?」

 これで、やっと、彼女は折れた。はぁ、と溜め息を空になった皿の上に捨てて「知りませんからね」と投げやった。

「好きな花は何ですか? それで、本当に最後ですからね」

 感謝を届けて一区切り。俺にも贈って、それで終わり。

 

 21時45分。最終電車までの猶予は残されている。とは言えど改札をくぐる人は、みな早足にエスカレーターへと急いでいる。
 ラフランは、まだ開いていた。俺のよく知るシャッター街の中で、ポツンと寂しげに咲いている。終業15分前。古びたシャッターは3分の1程度、閉められていた。
 花の積み替え作業の途中で、俺たちは「すみません」と中に入った。店員さんが「はい」と振り返る。どうやら顔を覚えていたらしい。背後のミラクルを見ながら誘った。

「明日から珍しい子が入るんですよ。良かったら、お早めにどうですか?」
「珍しい子?」
「あの子です。ミラクルさんよく買ってくれるので、特別に仕入れてみたんですよ」

 指を差されたのは蒼色の彼岸花だった。その花びらが、ハワイに広がる海の色をしている。いつもと異なる品種だ。その周りには赤色のノーマル達が飾られていた。引き立て役としては、これ以上ないだろう。
 売り出しコーナーは店の眼前に設置されている。イチオシ商品なのだろう。その後ろから3列目。6列12行のセンター4マスが蒼色に染まっている。手を伸ばしやすい位置取りだった。
 ミラクルは1輪の彼岸花を携えて、マジマジと見つめる。やっと口を開いた。

「蒼い彼岸花なんて初めて見ました」

 俺も手に取って花びらに触れてみた。指先がかさりとザラつく。店員さんに聞いてみたら「造花なんですよ」と言われた。なるほど。
 オレンジ色のアサガオや緑色の薔薇などが産み出されるなかで、蒼の彼岸花だけが品種改良に失敗する。軽く説明された。
 ミラクルがチラリと目線をやって、続けた。

「良いですねこれ。造花なら、水を変える手間が省けますから」
「えぇ。現在のところ、この色は造花でしか再現できませんけど、恐らく数十年後には近しい品種が開発されている可能性も高いんですよ」
「へー。もしかしたら俺がヨボヨボのおじいちゃんになる頃には、見られるかもしれないな」
「まぁ、そうですね」
「なんだか時代の流れに抗ってるみたいだな。無理にでも赤色であろうとするその必死さというか。そのうち一緒に見てみたいね」
「ハハッ──」

 サラリと流された。でも無視というよりかは、黙秘と言うべきか。
 彼女は1歩進んで、隣の赤い彼岸花を引き抜いた。それを真っ直ぐに見つめながら「本当に、おれみたいだな」と言った。
 花言葉のこと? 
 その質問に、彼女は首を横に振る。もう一歩だけ進んで、唇を僅かに震わせた。
 本当に、か細く消え入りそうだった。

「叶わないよな」

 凧糸をグズグズに揺るがせたような声だった。
 ごめん、もう1回。俺は初めて禁止令を破っていた。自分でも気がつかなかった。暫く何度も何度も、聞き間違えようのない言葉を確信の中で咀嚼していた。

「なんだよ、それ」

 ────息を吸って、吐き出して。
 その一言で、俺は理解してしまった。
 あぁ、出来てしまったんだ。
 誤解を信じろ。信じさせてくれよ。
 振り返るミラクルの目尻が薄く垂れていた。
 諦めたような顔で、笑っていた。
 

 

 


「遺伝したんです、母の癌が」

 

 


 彼女の婉曲した右膝がコキリ、軋む。
 赤の彼岸花。裏の花言葉は──“諦め”。
 最後まで言いたくなかったんですけどね。
 彼女は詰まりかけたセリフを、喉の奥から付け足した。

「もう思い残すこともない。これで満足です。さぁ終わりにしましょうか、約束の通りに。ありがとうございました」

 紅色の花びらを、唇に重ねて微笑んだ。

 

【蒼の彼岸花:言葉は“──”。存在しない花に、言の葉は当てられない。その品種が開発されるのは、ずっとずっと未来の話。3度の奇跡を信じた少女は、その花言葉を知らずして】

 

 

[chapter:5.]

 ミラクルは俺の連絡先を消去した。LINEのアイコンが灰色だったから、ブロックされたことは容易に理解できた。
 あの白鳥は死地を悟られないように、天を目指して羽ばたいたのだ。立つ鳥跡を残さず。あいつが言った通り、全てが最後になった。もう振り返ろうともしない。
 染み付いた習慣を止めるには、相応の意識を働かせなければならない。俺はあろうことか、今日も唐揚げ弁当を2つ用意していた。ねずみ色の人型アイコンを見て思い出す。
 メンバーがいません。
 俺は思っていたよりも、ミラクルに入れ込んでいたらしかった。
 大切なモノであればあるほど、失ってからその重みを理解する。3年前の経験はどうした? 油断していた分、ダメージが何倍にも跳ね上がっていた。フラッと再会できたから、もう2度と居なくならないと思っていたのだ。執着と言えば、それまでかもしれない。
 弁当作り──染み付いた習慣にしては、あまりにも白々しいだろう。頭の片隅では、彼女の再失踪を理解していたように思う。弁当作りは習慣であると同時に現実逃避でもあった。
 空っぽの容器と満たされた容器の2つを持ち帰る。余った方は夜ご飯として食べることになった。温めたのに冷たかった。冷え切った唐揚げを、こんなに食べられるワケがない。

「ごちそうさまでした」

 仕事をするにしても本腰が入らなかった。誤字脱字に宛名の指定ミス。凡ミスが増えた。担当を持っていなかったことも災いした。無駄に時間があるから書類作成を任されるのだ。活字を見るたびに、哀情の2字がフラッシュバックする。そればかりを考えてしまう。陰鬱にもなる。

 ──ずっと違和感を覚えていたんだ、ミラクルの説明に。

 右脚を殴り壊したこと。それは少なくとも真実だった。半分正解。肉親を亡くしたのだから、拳に怒りを込めること自体は自然である。
 しかし、脚を壊した直接的な原因は別にあったのだ。きっと癌に巣喰われたからこそ嫌になって、自ら膝を殴り壊すようになったのだろう。過程と結果が逆だった。
 嗚呼、何でおればっかりが。両親のみならず、おれの命でさえ望むのか死神よ。そう嘆きながら枕を濡らしたことだろう。まさか遺伝していたなんて。俺は、それすらも気がつけなかった。全くもって慚愧に堪えない。
 アイツが再失踪してから、休日は暇の一言に尽きる。やることと言っても、家でボーッとするくらい。ねずみ色のアイコンを見たくなかったから携帯を触る気にもならなかった。
 お決まりのワイドショー。テレビが1人で喋っている。あの日贈られた感謝もとい最後の花を眺めながら、俺も独り言ちった。

「枯れなきゃ良いって問題じゃないだろ」

 デスク右横のガラスコップに、蒼色のヒガンバナが浮かんでいる。八方に散らばる花びらはポリエステル製。樹脂のツヤツヤとした光沢が、水面を今にも揺らしそうだ。
 無機質な作り物でも、生けてやれば雰囲気くらいは出る。俺は花びらを人差し指で撫でて、ピンと跳ね返した。
 花言葉が無いなんて、奇妙な話ではある。敢えて当てはめるならば“冷徹”だろうか? そんなどうでも良いことを考えながら、貴重な休日を浪費する。
 スマホを開く気にはなれず、テレビにも飽きた。あくびが出るほど退屈だったから俺はPCで調べ物をした。今更知ったところで、どうにもならない知識を得る。

・骨肉腫──転移性の癌。治療は比較的容易だが、転移すると芋づる式。あらゆる臓器を巣食われて死に至る。
・通称──余命5年。生存率は2割程度。

 症例から治療法まで、多種多様な情報がネットの海を漂っていた。しかしどのサイトにも例外なく、タイムリミットが記されていた。最大で5年。そう、ミラクルが生きていられる、最大限の期間だ。
 俺は記憶を参照する。
 骨肉腫を発症した時期は? 転移の有無は? 俺はミラクルから重要な情報を何ひとつ聞き出していない。1年以上3年未満。そこにあるのは大雑把な予想だけだった。
 それでやっと、俺は旅の意義を理解した。あれは自身への手向けなのだ。アイツは後腐れを拭った。意味を込めた贈り物をすれば、笑って見送ってもらえるから。善行を積めば、天国に行けるかもしれないから。死後の世界に期待した。
 なんだよ感謝の旅って。全てが自分本位じゃないか。伝えたいことだけ伝えて、一方的にさようなら。消しゴムで擦るだけの作業だ。君はそうやって、どこまでも白い鳥であろうとする。羽を黒く染めないまま、まだ誰も見たことのない場所を目指して飛んでいく。
 今思えば、ミラクルの行動は全て「ありがとうございました」で要約できた。明らかに過去を見ている。精算作業ばかりで繰り越さない。
 もっと未来を見ろ。生きて、君のやりたいことをやれよ。
 ならば何をする? 
 残り1桁の寿命で何かを成し得るのは難しい。そういう意味で、感謝の旅は最善の手だったのかもしれない。されども──違う。
 俺はいても立っても居られなかった。
 じっとしていられなかった。
 PCを起動。ブラウザを立ち上げる。検索欄に「骨肉腫 治療法」と入力。もしかして:東京医大病院。聞き覚えのある病院がヒット。俺はいくつかの資料を請求した。無駄なことだなんて理解している。でも指が止まらなかった、
 その病院は最先端の医療を扱っている。日本で最も優れた施設だ。有力な病院を探せば探すほど、そこに流れ着く。
 現在11時半。受付は20時まで。まだ間に合うかもしれない。俺は直ちに電話を掛けた。
 
「骨肉腫は治せますか?」

 本心が口から飛び出した。いや、一言目がソレかよ。我ながら迷惑なヤツだなと思った。紆余曲折を説明したら「ご来院ください」と言われた。
 俺は電話を切って花瓶の水を流しに捨てた。空っぽになった器に本体を挿す。蛇口を捻ろうとして、やめた。蛇口キャップから垂れた水滴が、ポリエステルにじわじわと染み込んだ。化学繊維は水滴を跳ね返さない。俺は水道の栓を固く閉めた。水を取り替えないまま、蒼色の彼岸花を挿し直す。
 そうだ。これは偽物なのだ。
 空っぽになったそのガラスを放置しても、あの花は延々と咲き続ける。そう考えた途端に、造花が奇妙に思えて仕方がなかった。花は枯れるからこそ美しい。

 ──変化するからこそ綺麗なモノだってある。

 人生だって同じだ。困難を乗り越えるからこそ意味がある。それが例えば背筋を逸らすほど高い壁だとして、絶対に越えられなかったとしても、登っている最中に意義を見つけられたのなら、君は未来を望むはず。

「うん」

 人生の本質は流動なのだ。俺は、それが正解だと思った。偽物を定位置──デスク右横に戻して頷いてみる。納得はできなかったけれど、妥協はできた。そんな気がした。

 

 東京医大病院に到着する頃には、昼時のピークを過ぎていた。とは言えど休日なので、来訪者がチラホラと行き交っている。正面玄関すぐ左の受付に待機列ができていた。待機人数は、せいぜい片手で数えられる程度だ。
 順番はすぐに回って来た。電話の者ですと伝えると、4階の整形外科に通された。俺は先生から直接説明されることになった。
 聞かされた旨は、おおよそネットの通りだった。違いと言えば、具体的な数字に統計データや根拠が補足された程度だ。生存率が上昇していることや、新たな治療法が確立されようとしていること。先生は前向きに話していたけれど、全てが気休めにしか聞こえなかった。
 だって5パーセントしか上がってないんだもん、生存率が。たったの25パーセント。どうやってポジティブになれと。医学的には大きな進歩かもしれないが、俺にとっては足踏み同然だった。命を数字で計りたくはないけれど、それはあまりにも。
 黙っていると、担当医から尋ねられた。

「骨肉腫に罹られたのは、ご家族ですか? よろしければ、入院をご検討されてはいかがでしょう?」
「いえ、担当だったウマ娘でして。今はもう、連絡が取れないのですが」

 俺はパイプ椅子に座ったまま天井を高く仰いだ。担当医はボールペンの先端で、手元のクリップボードをカツンと叩く。
 入院用のパンフレットなんて、渡しようが無がっただろう。患者と連絡が取れないのだから。彼は咄嗟に話題を逸らした。

「この病院にも骨肉腫で入院されているウマ娘さんがいらっしゃるんですよ」
「そうなんですね」
「はい。やっぱりその娘もスプリンターで。脚を酷使するというか、短距離を走る子はどうしてもこの手の病気にかかりやすいんですよ。しかも過去に怪我をしているなら尚更」

 ──ドクン。
 心臓が高鳴った。それはレストランで経験したモノとは全く異なる、明らかに異質な昂りだった。スプリンター。過去に怪我。そこまで一致するなんて奇跡としか言いようがない。俺は妙に期待した。してしまったから、聞かずにはいられなかった。

ケイエスミラクル──ですか?」

 医者は、ギョッと目を張った。点と点が線になる。

「やっぱり、そうですか?」
「……守秘義務があるので」

 偶然は必然へ。それはもう答え同然だった。俺がミラクルのトレーナーだなんて、夢にも思っていなかったのだろう彼は。事故だ。俺は、背中にねっとりとした汗をかいていた。
 そうだ。考えてみればおかしな話だ。。0856室。その4桁のネームプレートに「ケイエス様」と書かれていたことが。ミラクルはお母さん用の表記だと言い張ったけれど、嘘だったらしい。そのネームプレートは紛れもなくミラクル自身を指していた。本人も幼少期に入院した経歴があるのなら、今も世話になっていても変ではない。
 なるほど。
 掛け布団のタオルケットに妙な生活感があったことも頷ける。
 俺は得た確信を手に余らせていた。面会を希望したって、謝絶されるに決まっている。
 だから俺は待ち続けることにした、ピアノ弾きに降りてくるミラクルの姿を。
 俺は礼を言ってからロビーに戻った。保険証も診察券も返されたけれど、俺は受付前の椅子に腰掛けた。グランドピアノの旋律──ノクターンを待ち侘びる。

「はぁ……」

 パタパタと、患者服を着た子供達がスリッパを履いたまま走り回っている。夕焼け小焼けの合図と共に階段を駆け上がって、それぞれが病室へと帰ってゆく。保険証を返却された大人たちは皆、入り口の自動ドアへと流れていく。扉の隙間からすり抜ける風が、首筋を緩やかに撫でる。少し冷たい。
 ふと顔を上げるとテレビが目に入る。今日もダラダラと、お決まりのワイドショーが垂れ流されていた。恐らく俺だけがボンヤリと眺めていた。薄い液晶の向こう側で取り留めのない話題ばかりが通り抜ける。どこかのプロ野球選手がホームランを打っただとか、ロシアが戦争を起こしただとか。評論家のそれらしい意見に耳を傾ける。待てど暮らせどノクターンは聞こえてこない。また、俺は溜めた息を吐く。

 ──こんばんは。

 ミラクルかと思った。声音が似ている。いや違う。ニュースキャスターと女子アナウンサーが、声を揃えて言ったのか。騙された。16:59の下ひと桁が滑って0が2つ並ぶ時、あらゆるチャンネルがニュースへと切り替わる。夜への変遷。自動ドアのガラス窓に、俺の座り姿がくっきりと映し出されている。俺は待ち時間を活かして癌の資料に目を通していた。インターネットの内容とほぼ変わらないけれど、活字を読んでいる方が多少は気が紛れた。
 夕暮れ時は過ぎ去って人の気配もポツリポツリ。もう帰ろうかな。無謀だったかな。そんなマイナス思考に偏る時間帯だ。
 ピアノの席が埋まることは時々あったんだ。みな患者さんだ。静かな音色が聞こえた時は大人で、躍動感に満ちている時は子供。何曲か聴いているうちに判断できるようになっていた。

 “──────”

 新規の来院は、もうない。そのピアノが鳴った時点で、席に座っているのは入院患者で確定だった。俺は手元の資料から音のなる方へと視線を移す。
 指1本で鳴らすファのシャープ。その音質は誰よりも温かくて優しくて、俺は過去に1度だけ聞いた覚えがあった。誰が弾いているかなんて、すぐに分かった。
 視線の先にいたヒトは、白い患者服に身を包んでいる。ミラクルに違いなかった。それなのに、まるで別人のようだった。まるで夜勤明けのサラリーマンみたいな顔色だ。喉仏が浮き出るくらい首が細くなっていた。遠目からでも、両頬の痩けが分かった。誰が見たって明らかに病人だ。一緒に居た時は無理をしていたんだな、と俺は思った。メイクが濃かった理由にも納得できる。君はファンデーションの裏側に、嘘を隠していたんだね。また情けなくなった。本当に、何ひとつとして見抜けてない。
 彼女はナースさんの手を借りて、車椅子から立ち上がる。ヨタヨタとよろめきながらピアノ椅子に座った。もう1度、骨の浮いた人差し指でひっそりと鍵盤を弾いた。歪んだ右足は添えるだけ。ペダルには、左足だけを乗せていた。以前は両足を揃えていたハズなのに。
 フラ、フラ、と彼女の頭が不安定に揺れている。具合が悪そうに鍵盤の上に伏せ込んだ。
 もう、ダメだった。耐えられなかった。とても見ていられなかった。

「なぁ……」

 俺は演奏が始まる前に話しかけてしまった。

「えっ──?」

 力無く振り向いたミラクルの素顔を見て、俺は息を呑んだ。近くで見ると隈が明瞭になるんだ。窪んだ眼下が煤を塗ったように黒かった。思っていたよりもずっと、容態が悪化しているらしかった。
 彼女はハッと目を見開いてすぐ、鍵盤に顔を伏せ直す。

「どうして。この姿を見せたくなかったのに」
「『どうして』じゃないよ、まったく。心配したんだからな」
「ハハッ……これじゃあ格好つかないな」

 ミラクルはのっそりと上半身を持ち上げて首をやれやれと振る。ナースさんに「彼に頼みますから」と申し出た。
 俺はその手を引いて、彼女を車椅子に座らせた。簡易型ナースコールボタンを引き継いでエレベータへと向かう。行先は0856室。
 言いたいことも聞きたいことも、お互いに山ほどあったと思う。それでも揃えて口をつぐんだのは、そこに後悔というか、それに近しい感情を抱いていたからに他ならなかった。

「久しぶりだね」
「はい」

 会話が途切れて続かない。急な失踪に入院の真相、残された時間や治療の有無等、知りたいことが多すぎる。どれもこれもが1度に押し寄せてくるせいで、却って口が詰まった。その代わり、随分と軽くなった車椅子を押していると言葉にならないものばかりが零れ落ちそうになる。何かを言いかけては、喉の奥にしまい込む。
 病室までは早かった。スピードを出したワケではないけれど、考え事をしていたから。
 0856室の景観は以前通りだった。ウッドデッキ上の金魚鉢にシーツのシワ。まるでその空間をフィルムの中に閉じ込めたようだった。
 強いて変わった点を挙げるならば彼岸花が蒼くなっていたことくらい。俺に贈ったのと同じポリエステル製。手元の金魚鉢に浮かんでいた。ベッドに座らせたミラクルが、それを指さして言った。

「綺麗ですよね」
「うん。俺もデスクに飾ってる」
「良いですね。やっぱり枯れないのは有難い」

 彼女は「ですから」と続ける。

「数十年後も忘れないで下さいね、おれが枯れても。ふとした時に思い出してくれたら、それで十分なので」

 俺は、儚いなんて表現で片付けたく無かった。

「なんで君はそうやって、いなくなることが前提なんだよ……」
「もう、疲れちゃいました」

 それは少なくとも助けを求めている表現では無くて、悲壮感というか、もっと、ずっと、投げ出したような言葉だった。

「生きてくれよ。頼むから。お願いだから。教え子の諦観なんて経験したくないよ……」
「もう良いんです」
「よくない」
「良いんです」
 
 おれも頑固ですよね。
 彼女は軽く「フフッ」と笑みを溢して白い天井を見上げた。ボフンと身を投げて言った。

「早く楽になりたいんです」
「嫌だよ、一緒に治そうよ。怪我をしたって、2人で乗り越えて来ただろ?! 生まれつき身体が弱く立ってそれを言い訳にしないで必死にトレーニングして。そうやって進んできたじゃないか? あの頃の情熱はどうしたんだよ!?」

 ミラクルは視線を窓の外に逸らして、遠い空の向こうを見通した。

「美しくないんですよ」

 視線の先に、夕暮れオレンジが広がっている。地平線に近づくにつれて、焼き焦がした色に変わっていた。

「……何が?」
「壁を幾度となく乗り越えて、変わって変わって変わり続けて──その先に待っていたのがこの結末ですか。生まれつき弱い身体に骨折、G1で勝ったと思ったら癌ですよ。ついには両親が死んで。あーあバカみたいだなって。こんな思いをするくらいなら、自分を変える必要なんて無いんですよ。いっそのこと花や鳥に生まれたかった」
「…………それは違うだろ」

 結果論だ。

「じゃあトレーナーさんが言う『情熱』ってやつで、おれの両親は生き返りますか? 骨肉腫は治りますか?」
「──いや」
「そうですよね。だから、運命ってやつに流されていた方が楽なんですよ。死に際くらい、自由に選ばせて下さい」

 俺は、返答できないままでいた。選ばせろなんて言われたら打つ手がない。
 しばらく黙っていると、ミラクルがニコリと目尻を伸ばして、継いだ。

「以前にも言った通り、ここは母が使っていた病室でもあるんですよね。家具の配置も全て当時のままでして。そのおかげか、一緒に笑っていた頃の記憶が蘇って来るんですよ。いやぁ、やっぱり『不変』って本当に素晴らしい価値観ですよね」

 らしくもない。幼かった彼女であれば、到底口にする筈のないセリフだ。
 でも俺は、それが本心でないと信じたかった。病気が進行しているからと、諦めているだけではないのか? そう疑った。どうしたって説得せずにはいられなかった。

「頑張って生きてみなよ。最期まで治療してみなよ。君の、やりたいことをやりなよ……。人に迷惑をかけたって良いんだよ。抗ったって、誰も咎めないからさ」
「いいえ、これで満足するべきなんです。おれ、トレーナーさんといると、どこまでも求めちゃうんです。きっとこの先も100点満点じゃ足りなくなっちゃうんです。治そうとすればするほど孤独を感じて、未来を欲しがって苦しくなって。あぁ、美しくない。そこまでして生きる意味は、あるのでしょうか?」
「きっと、これから出来るよ」
「トレーナーさんなら、そうなのかもしれませんね。でもおれには長く生きる理由が無いんです。親孝行が必要ないどころか両親を殺したのは、おれですし。レースで稼いだ金を注ぎ込んでも母の病気は治らなかった。そればかりか、父に与えたものといえば1瓶の睡眠薬。ほんと『情熱』って何なんでしょうね? その熱量で現状を変えようとしたら、大切な人たちが死んだ」

 ミラクルは造花のように、枯れない選択をしていた。それは若さゆえと言うか何と言うか。清々しいまでに真っ白だった。まるで黒く塗りつぶした画用紙の真ん中を、ハサミで切り取ったみたいだ。心に風穴をぽっかりと開けたまま天国へと昇ろうとしていた。
 この娘は白鳥の翼こそ白くあるべきだと決めつけている。

「親孝行とか感謝とか、そんな気配りに縛られる必要なんてないんだよ。それは1つの選択であって全てじゃない。君の人生じゃないか。それに両親を連れて行ったのは癌だろ。ミラクルは何も悪くない」
「治療したとしても完治はしません。今さら生きてみろと? そしたら投薬に介護は誰がするんです? ダメなんですよ誰かに迷惑をかけたら。後腐れに繋がっちゃうので。おれは、濁ったまま死にたくないんです」
「なんだよ、それ……」
「信念とでも言いましょうか。分かって下さい。分からないなら、今後おれには関わらないで下さい、2度と。だから以前に『最後』と言ったんです。せっかく汲み取ってくれたと思ったのに。残念です」

 歪んでいる。本当に、歪んでいる。不幸が、そこまで君を歪めたのか。
 不変なんて嘘だ。彼女は、ある意味で変わっていた。歪でかつ一方通行。それにすら気がついていない。
 未来へ羽ばたこうとしていた白鳥は、もう死んだ。翼がすでに折れている。

 俺は理解した──彼女を巣食う信念を。

 ミラクルは己の美徳に従って、在らん限りの汚れを拭ってるんだ。治療──泥臭さすらも減点とみなして修正する。お礼に配った花束で、後悔を断ち切って、加点。愛されたまま死ねるからと、絵の具を足して足して着色を繰り返して、自分の色に囲われてから散っていく。残された空白を、1枚の白い紙に見立てて。
 0856室はその完成形だったのだろうと思う。生きた花は枯れてしまうから、リミットがあるから。未来永劫残り続けるポリエステルに価値を認めて、その空間を固定した。
 その静謐を保存して、数十年後も同じままであろうとする。それこそが美徳なのだと信じている。
 そんなハリボテに何の意味がある? 
 己の意思を突き通しているように見えても、決してそうではないだろう。彼女は、まるでプログラミングされたコンピューターのように最適解を導き出しているだけに過ぎない。
 ──どうすれば幸福のまま死ねるのか。
 どこまでも余白を追求した。
 奇跡を信じない。100点なんて求めない。
 そんな足し引きの果てに、ミラクルは全てを諦めた。

「嘘だよ、そんなの」

 点数をすり減らすだけの余生なんて、そんなの悲し過ぎるよ。

「──嘘?」
「だったら、なんで君は花言葉を選んでたんだよ? 加点したいなら贈るだけで良いじゃないか」
「何でと言われましても」
「おかしいじゃないか」
「おかしくないですよ」
「そうやって誤魔化すなよ」

 少し語気を強めたら、彼女は顎を少し引いた。深呼吸。

「はぁ……。わざわざ花言葉を選んでいた理由です、か。嫌に鋭いなぁ」
 
 ミラクルはグッと喉を上下させて浅く俯いた。左肩に垂れる水色の髪束を、人差し指でクルクル。貼り付けた微笑を静かに飲み込んだ。笑顔までもが死んだ彼女は、初めて見る表情をしていた。それは過去に1度だって見たことがない顔で、今にも崩れ落ちそうなことだけが確かだった。
 君はマリーゴールドを配っていたじゃないか、元気になってほしいからと。ピアノを弾いて聴衆を引き込んだ。
 それは願望を含んだ証左に他ならない。
 亡くなった先──見ることの叶わない未来に期待を寄せて、君は贈った者に「そうであって欲しい」と願ったんだ。ある意味で、花言葉の裏に己の欲望を隠したと言える。
 俺は初めて彼女の本質を見抜けたような気がした。それは恐らく最も奥に閉じ込められた感情であもあり、核心だった。

「そうだよ。全部が、全部が嘘だ。俺が、どれだけ君を心配していたことか。いくら弁当を作ろうと旅に付き添おうと、知らないフリして居なくなるのか? 失踪の件も両親の件も病気の件も、言葉の裏側に隠すのはやめてくれよ。放っておけるワケがないだろ。今回だってそうだ。その期待はどうするんだよ?!」
「『やめてくれ』なんて……おれの台詞ですよ」

 蜘蛛の糸みたいに細くて、今にも千切れ落ちそうな声だった。でもここで千切れたら2度と帰ってこないだろうと、俺は思った。

「嫌だ。だって、そんなのどう考えたって心残りだろ。君は生きて、みんなの未来を見届けたかったんじゃないのか?」
「──やめろと言ってるんです!」

 ミラクルは語気を強めてそう言った。
 金魚鉢を引ったくる。右腕を振り被る。投げつける。背後でバリン。ガラスが砕け散った。リノリウムの床を滑る濁り水が、パイプ椅子の四つ足を濡らす。

「当たり前じゃないですか、おれだって生きたかったですよ! 何をした? どこで間違えた? それが分からないから理由を付けたのに、あなたは人の気も知らないで」
「じゃあ──」
「腫瘍が見つかった時には、もう手遅れだったんですよ!」

 手遅れの癌──ステージIII。俺は治療以前から詰んでいたことを知らされた。サァーッと、血の気が引く感覚に襲われた。彼女は途切れそうな声で、呟いた。

「だから……だから造花を贈ったんじゃないですかあなたに……。居れば居るほど求め過ぎちゃうから。隠しきれないからって。察したなら黙ってて下さいよ。言わせないで下さいよ……」

 蒼の彼岸花:花言葉は“──“。
 彼女が俺に空白を贈ったのは、信念の裏返しだった。そこに願望を込めたら本質に目を向けざるを得ないから、敢えて。
 そうだよな。いくらでも腑に落ちた。
 だからこそ。

「黙ってろなんて、そんなの出来るワケないだろ。だって──」

 少し、突っかかった。素直な言葉は雰囲気にそぐわない。
 だが、決して嘘偽りない感情だった。それが古びていようと、たとえ哀情と言われようとも。
 代わりの利かない言葉を、俺は最大限に言い換えた。

「君の担当だったから」

 俺は地面に散らばったガラス片を、1つずつ拾い集めた。床を拭くために席を立つと細かな破片がジャリジャリと擦れた。膝をついたら少し、ザラついた。ガラス片の擦れ合う音が響く空間で、俺は啜り泣く声を聞いた。
「おれが中長距離を走れていたら」。「有マ記念を走れていたら、もっと稼げたかもしれないのに」。「お母さんを救えたかもしれないのに」。掃き溜めに捨てた本心を引っ張り出して、己の無力を呪っていた。
 それでやっと、仮面が剥がれたような気がした。

「何度だって言うさ。放っておけないんだよ俺だって。こうしてまで助けたくなるくらい、君のことを大切に思ってる。あのね、そうやって大切に思う人がいるからこそ、君は100点満点なんて言わずに、1000点でも10000点でも求めて良いんだよ」

 顔の上げ方を忘れた少女は、遠く描いていた日々を謳っていた。後ろを向いたまま助けを求めているように思えた。
 今一度、心に誓ったコトを言う。

「その花言葉は、1人で埋めるモノじゃない。また変わろうとしてみてくれよ。治しながら一緒に空白を埋めよう。後腐れなんて、そんな終わらせ方はさせない。君のやりたいことをやろう。楽しんで、いくらでも加点すれば良いんだ」

 我ながらクサいセリフだな、と思った。でもそれが最も端的で且つ素直な言い回しだった。
 
「あぁ……もう……何で……そんなに優しいんですかトレーナーさんは。そんなこと言われたら、諦めきれないじゃないですか」

 ごめんなさい。
 また、ミラクルは禁止令を破った。破ってすぐに、また、どうしようもなくなった。
 墓石の前で一緒に手を合わせた時のように顔をグッチャグチャにしていた。
 おれは悪くないのに。何もしてないのに。
 泣いて、咽せて、また泣いて。
 余った謝罪は拳に込める。膝に向けて放たれる。

「あぁぁ、もうッ!」

 花瓶よりも細い腕。
 振り下ろそうとして、空振った。
 やり場のない怒りを、ぶつけることすら叶わない姿を見て、俺も──ダメだった。
 2人で謝りあっていた。禁止令なんて、何ひとつとして守れやしない。

「隠すのはやめようお互いに。言いたい事は言う。正直になる。良い?」
「はい。謝るのも隠すのも最後にします。今度こそ本当の意味で」

 最後にします。
 それは失踪前にも聞いた言葉だった。約束を破るたびに、塩辛い慟哭ばかりが頬を滑る。
 ──死ぬまで笑って過ごそうか。
 俺がした提案を、ミラクルは快く受け入れてくれた。泣くのも最後、謝るのも最後。満点を飛び越えるなら、2人で笑っていないとね。

 

【蒼い彼岸花:花言葉は“──”。存在しない花に、言の葉は当てられない。言い換えると、その空白は自由に埋められる。どんな表現がピッタリなのだろう。“元気”かな? “感謝”かな? それは2人でじっくりと決めれば良い】

 

《center》〈第2章:青い台詞〉《/center》

[chapter:1.]

 ミラクルは己を変える決意をした。
 その第1歩目が投薬治療だった。様々な薬を試して多少の副作用に苦しめられて、吐いたり尻尾の毛が抜けたりしたけれど、体調は安定した。身体痛はモルヒネの服用で解決した。一時的に退院できるくらいまで回復したのは、4月上旬のことだった。
 手遅れでも延命くらいは可能なのだ。ウマ娘の生物的な強かさは不幸中の幸い──いや、不幸は不幸か。されども、前進したことに意味がある。

「これから何をしたい?」
「そうですね。花の贈り物は続けるとして」
「うん」
「海へも行ってみたいです」
「行こうか」
「寒い時期は北海道に行きたくて」
「そうしよう」
「食べ歩きなんてどうでしょう」
「最高だな」
「あ、でもピアノは弾いてたいな」
「いいね」

 俺はミラクルが乗る車椅子をノロノロと進めていた。一時退院ということで、とりあえず自宅へと向かっている。自宅とは言っても俺の家だ。
 彼女はマイホームを売り払ったらしい。その金で余命分の0856室を貸し切った。言い換えれば、売って得た金を入院費用に注いだのだ。仮に俺と再会しなかったら、あの白い牢獄で没しようとしていたらしい。俺の住処が一軒家で良かったなと、改めて思う。
 病室を貸し切るには潤沢な資金が必要だ。彼女から概要を聞いてみたら、状況は思っていたよりも深刻だった。

「いやぁ、医療費が嵩んでしまって」
「ギリギリ?」
「お恥ずかしながら」

 貯金が底をつきかけているらしい。もとより死ぬ予定で配偶者もいないのだから、彼女には金を遺す理由がない。寝床と死に場所が有ればそれで良い。食事付きだから尚更のこと。俺は妙に納得した。
 彼女が骨肉腫に罹ったのは3年前。入院期間と足し合わせれば5年。その癌の通称──余命5年に一致する。

「いっそのこと腹括った方が楽なのかなって思いまして。でもどうしましょう。有り金を入院費用に宛ててしまったので、少しでも長生きすればお終いなんですよね。いやぁ、道端で野垂れ死ぬのだけは勘弁したいなぁ」
「大丈夫。最悪俺の家に住みなよ。道路よりはマシでしょ」
「でも、迷惑かけちゃいますね」

 俺はミラクルのつむじに、手刀をポンと当てた。

「後腐れはナシって言ったでしょ? その辺気にすんな。トレーナーの収入をナメて貰っちゃ困る」
「うーん、そうだなぁ……。それじゃあ、お言葉に甘えちゃいましょうか。お代はピアノで払いますね。演奏料ってことで」
「いいね。契約成立だ。じゃあ、そのうちグランドピアノでも買うか」
「わぁ、ありがとうございます」

 ミラクルは「フフッ」と緩めたまま続けた。

「看取ってくれる相手が居るだけで、こんなにも違うんですね。もっと早く相談すれば良かったのかなぁ」
「ホントだよ、もう」

 再び手刀をぽすん。両ミミの先がピトリと寄りあって、俺の右手首に橋が架かる。
 こんな会話を交わしたから、俺たちは帰る前に適当な家具屋へ行くことにした。グランドピアノは売ってないけれど、生活必需品なら揃う。
 我が家には敷き布団が1つしかない。迷った挙句、組み立て式のベッドを買った。ミラクルが欲しがったから「人をダメにするソファ」ってやつも注文した。いかにもアドマイヤベガが好きそうなソファである。小柄なミラクルなら、スッポリと身体ごと収まれた。ベッドが届くまでは、そこに埋もれててもらう。
 注文の品は翌日に到着した。組み立てたけれど、ミラクルはソファを好んだ。座り心地が最高らしい。寝る時すらダメにされていた。いやベッドを買った意味が。
 ──まぁ、良いか。
 彼女が車椅子を使ってるとは言えど、日常生活を営む程度ならば造作もない。だから、介護というほどでもなかった。階段を登る時とか靴を履く時とかに少し肩を貸す程度。一時的とは言え、ほとんど同棲状態になった。
 随分と妙な関係だ。余生を彩ろうとするウマ娘と、その元トレーナー。しかし一口に表現できない間柄も、俺は存外悪くないと思っている。居心地が良ければ何の問題も無かった。ひとり暮らし時よりも、室内の雰囲気が明るくなったように思う。
 それからの俺達は願望を点数に変える作業をした。体調の回復及び変化の過程で、人間関係にもテコを入れるのだ。ミラクルは友人達との再会を希望した。平日は俺が仕事だったから休日を活かす。
 最初に顔を合わせたのは、ダイタクヘリオスヤマニンゼファーだ。一身上の都合でLINEを返していなかったミラクルなので、再会したら案の定。車椅子に座るミラクルを見て、ヘリオスは尻尾をビンと跳ねさせた。
 静かなカフェテリアだったから、声が少し響いた。

「ちょっ、ミラっちマジでヤバくね?! 癌とかエグすぎてぴえんじゃん!?」

 全くもってその通りだ。
 ヤバくてエグくて救いようが無い。

「うーわ、ウチにできるあったらなんでもするべ。なんかあったらシクヨロ!」

 しかし彼女の歯に布着せぬ物言いは、気を遣わなくて良いため却って楽だった。よそよそしい気遣いなど当事者の意思に反している。ミラクルは黙りこくっていたゼファーを優しく絆す。

「おれは大丈夫だから。治ったら、また一緒に走ろう」
「……果たして、ご病気は治るのでしょうか。先ほどからずっと、悪風が吹いてやまないのです」
「ハハッ。やっぱりゼファーに隠し事はできないや」
「……そうですか」

 それは事実である一方で回答でもある。奥行きを理解したヘリオスもシン、と静まった。

「それって、もうダメってことなん……?」

 誰だって理解できることだ。
 沈黙は肯定。全てを理解したヘリオスは今にも泣きそうな顔をしていた。

「でもね、後悔はしてないよ」

 それで崩れた。大袈裟に泣く姿を想像していたけれど、シクシクと痛めていた。それがミラクルの良心を震わせたらしかった。
 ──もう変わりたくない。
 ミラクルがかつての拘泥を打ち明けたら、ヘリオスが憤った。
 アホなん? フザけんな。そりゃねーべ。
 非難轟々だった。

「もっと早く相談して下さったら」

 ゼファーも俺と同じ意見だった。それでもこの再会も変化の1歩なのだと説明したら、ヘリオスは涙を拭った。

「まじ許さん。そんならアタシも最後まで一緒に居てやる。ミラっちに拒否権ないから、おけ?」
「私も、ご一緒させて下さい」
「2人とも、ありがとう」

 本当に良い友人を持ったな、と俺は思った。余生への加点としては、申し分ない。俺1人では限界があった。
 ダイイチルビーはミラクルの親友だ。華麗なる一族としての努めを果たした今でも、それは変わらないらしい。多忙な彼女がわざわざ時間を割いてくれて、我が家に出向いてくれた。
 ミラクルの姿を見るやいなや、両目をハッとと開く。表情の固い彼女らしからぬ反応だった。その眉をピクリと動かすのに、どれほどの衝撃が必要だったことか。
 
「やぁ、ルビー」
「ご無沙汰しております」

 ルビーはそれだけ言って、両目を閉じた。3秒経ってから開いて「そうですか」と返した。彼女は淑女である前に親友である。

「貴女らしくもない」

 それとなく察したのだろう。以心伝心。彼女が泣くことはなかったけれど、声のトーンが落ちていたことだけは明らかだった。

「癌なんだ。もし良かったらさ、おれが死ぬまで仲良くしてくれる?」
「はい」

 それだけだった。滞在時間にして15分。制限時間がくると黒塗りの車の中へと消えた。それでも、言葉足らずとは決して思わなかった。
 ひと通りの旧友とは再開できた。休日が真の意味で休日になったので、俺たちはレースの録画を見返したりテレビゲームをしたりした。ヘリオスが毎回1位だった。ルビーは時々参加しては最下位だった。ご令嬢にゲームの経験がないことなんて当たり前だが、要領を掴んでからは無双した。ヘリオスがごねる。ルビーが容赦なく叩き潰す。横からゼファーが掻っ攫う。その様子を遠巻きから眺めるミラクル。ケラケラと笑っていた。
 そうやって遊んでいるうちに偶然、4人の休暇が一致するタイミングがあった。ヘリオスの一言で旅行をすることになった。鶴の一声ならぬ白鳥の一声だった。行き先はミラクルが決める。

「じゃあ、海へ行きたいな。シーズンじゃないので泳げないとは思いますが」

 話し合いの結果、俺たちは沖縄まで飛ぶことにした。ミラクルがピンポイントで指定した海岸へひとっ飛び。
 きっと、もう十数ヶ月も経ってしまえばミラクルは。
 そんなことを考えて、俺は少しブルーになった。だが少なくとも──いや違う。だからこそ夏まで待たなかったのは、合理的な判断だと言える。
 長期休暇の申請にホテルの予約、航空券の発券。色々と手続きがあったけれど、すぐに終わった。パンフレットを指さした彼女は言う。

「やっぱり4月は、全体的に高くつきますね」
「仕方ないよ」
「ですね。でもやっぱり、この夕陽が見たくて」

 その人差し指が、背景のブラッドオレンジを捉えている。それは蜜柑ジュースに、赤いペンキを混ぜたような色をしていた。印刷の関係なのか、色合いが少し粗く見えた。

「17時半くらいに見られるらしいです」

 俺は日没までが遅いなと思った。
 ──って4月か。
 もうそんな季節なのか。
 俺は1つ、クシャミをした。なんだか鼻先がツンと痛む。

 


[chapter:2.]
 
 滞在期間は5月初旬の3日間。初春であろうと、沖縄の気温は夏と変わらない。20°を平気で上回る。ひたいに汗を感じるくらいには暑かった。ホテルの玄関から漏れ出る冷気が、鎖骨にスルリと滑り込む。
 車椅子の関係で、俺とミラクルは同じ部屋だった。ハンガーに掛けられた俺のシャツを見ながら、彼女は不思議そうに問いかける。

「長袖って暑くないんですか?」
「職業病なのかな。ワイシャツの方が落ち着くんだよね、まぁ暑いけど」
「へー、なるほど。じゃあアイス食べましょうよ」

 冷凍済みのチューペットが90円。ロビーで売ってたから俺は1本だけ買った。
 膝でポキリと折る。その断面から白い冷気が立ち昇る。
 渡す前に、少しイタズラしてやろうと思った。ミラクルの首筋に、背後からピトリとくっつける。車椅子から垂れた尻尾がビンと跳ねた。

「うひゃっ?!」
「悪い。手が滑った」
「嘘ですよね?! 絶対嘘ですよね?!」

 俺は中学生みたいなことをした。ミラクルはシャーベットを咥えたまま、ミミをキュッと絞る。ジットリとした目線を向けられた。

「さぁ?」

 ブルーハワイが舌の上で甘く溶けだした。春の味がする。
 現在16時30分。日没まで1時間ほど暇がある。休憩を提案したけれど、彼女は聞くミミを持たなかった。「善は急げ」ですよ。
 そんなワケで、俺たち5人は合流した。アイスを咥えながら海岸通りへと繰り出した。そこからでも、海は十分に見渡せる。
 一望すると、ミラクルがヘリオスみたいになった。

「うわーッ! 凄い綺麗ですねトレーナーさんっ! 見てくださいよ。透き通ってます!」
「見えてる見えてる落ち着いて。うん……やっぱ海ってのは綺麗だな」

 サラサラと、白砂が波に洗われている。引いて押し出されて、こなれていく。曖昧な境目を通り過ぎれざ途端に蒼みがかる海の水。俺は地平線を見据えている。ツン、と磯の香りが鼻をついた。舌の上にじれったい塩気を感じる。
 5月──ましてや平日ともなれば観光客は殆どいない。まぁ、パラパラと見かける程度。その僅かな人の影もエキストラなのだ。
 絶景は腹に溜まるから、俺はメインディッシュの前から満足していた。ルビーも息を呑んでいたし、ゼファーに至っては磯風を浴びている。うっとりと気持ち良さそうだった。
 でもミラクルは満足しなかった。沖合を指差して「行きましょう」と言った。
 その足の裏で、白砂を踏み締める旨を望んだ。

「良いよ」

 車輪に砂利が噛んでは台無しだ。車椅子は石階段の端に寄せる。右手を引きながら1歩2歩。俺は彼女をエスコートしなければならない。きっと、車椅子は盗られない。
 チューペットのゴミを尻ポケットに押し込んで靴を脱ぐ。素足を砂にくっつけると、滲む汗にビッシリと張り付いた。少し歩いたら、爪の隙間に挟まった。
 沿岸は、どこまでも続いている。俺たちは沿いながら、帰りのことなんて考えずに歩いた。まぁでも、このまま君が望むなら世界の果てまで一緒に歩いていければな、とは考えていた。
 ミラクルはひょこひょこと進んでいる。進めば進むほど車椅子が豆粒になって潰れて、やがて振り返っても見えなくなった。そこで足を止めた。その場でしゃがんで、両手で砂を掬い取る。

「一回やってみたかったんですよ」

 良い大人達が本気で城を建てた。5人がかり2階建ての豪邸を築いた。はいチーズ。連写した。俺だけ半目になっていた。みんなに笑われた。一斉に送信。
 足が痺れた。伸ばして、俺は両手を後ろについた。浅い波が足首にザブンと被さる。生ぬるくて心地よかった。
 ビピピとスマホのアラームが鳴った。17時20分。日没まで10分ほど猶予がある。ミラクルは仰向けに寝転がって、俺に頼んだ。

「10分後に起こして下さい」
「寝るの?」
「えぇまぁ、少し疲れたので」

 彼女は目を閉じて浅い呼吸を繰り返す。

「具合悪い?」
「……少し。でも休めば回復すると思います」

 俺はシャツを折り畳んで枕にする。ミラクルが頭を少し浮かせたから、隙間に差し込んだ。まぁ、本人がそう言うのならば。
 次に声を発したのはヘリオスだった。

「ねぇトレぴ。ちょいこっち来てよ」

 岩陰に連れ出される形となった。口元を手で囲いながら、彼女はヒソヒソと切り出す。

「前から気になってだんだけどさ、トレぴってミラっちと付き合ってないん?」

 心臓が口から飛び出しそうになった。

「急だなオイッ──!」
「付き合ってないなら、逆に何でなん?」

 俺はチラリと岩陰から向こうの様子を確認した。ゼファーとルビーがミラクルの様子を看ている。聞こえてなかったらしい。セーフ。

「付き合ってないよ。まぁ、何でと言われても困るけど。ミラクルと再会したのも半年前くらいの話だしな。それまで失踪してたんだぜ、アイツ」
「ねー。アタシもそうだった。全然連絡つかんの。久しぶりに会ったら余命3年ってマ? なんなら今でも信じられないし」
「俺も。でも何だろな──分かるんだよ、アイツの衰弱具合が。会った時よりも今の方が確実に痩せてるし、顔色も悪い。隠してはいたけど見えちゃったんだよね、二の腕に黄疸があるの」
「そマ? ヤバいじゃん。えー……もうマジ無理。ツラたん。つか思ったんだけどさ、再会した時ってどんな感じだったん? 失踪してたってことはLINEも死んでるってことじゃん。会う約束なんて出来ないやん」
「いやー、なんかね。保健室でバッタリ出くわしたんだよね。トレーナー室のエアコンが故障してて、冷えピタでも貰おうかなと思って訪ねたら、居た。座ってた」
「ヤッバ。そんなことある?」

 ヘリオスは少し経ってから、親指をグッと立てた。

「運命ってヤツっしょ」

 そうかもしれないな、と俺は思った。
 エアコンが故障していなければアイツは今頃。そう考えるだけで背筋がゾッとする。
 ──俺の説得は果たして正解だったのか。
 ふとした時に鈍る。その説得は俺にとって運命だが、ミラクルにとっては悲劇だったのかもしれない、と。心の中で揺れるのだ。
 少なくとも病院で再会した時点で、ミラクルは己の人生に満足していた。でも、それを無理に説得してまで変えたのは俺だ。空白に余生を詰め込むキッカケは、俺が作った。しかし言い換えてしまえば、それは感情に依るエゴとも捉えられる。

「……運命なぁ」
「ねぇトレぴ、今難しいこと考えてるっしょ。眉間にシワよってんぞ〜」
「ん? あぁいや、迷惑じゃなかったかなって考えちゃって」
「ん〜。ウチ馬鹿だから難しいこと分からんけど、まぁそんな気張らんで良いんじゃね? だって、トレぴが変えてくれたからこそ、アタシ達は今ここに居るワケじゃん? あと好きでもねー男に説得されたところで、ふつーは響かんし。告っても大丈夫っしょ。もっと気楽にいっていいんじゃね?」
「今サラッと凄いこと言わなかった?」
「別に。事実だし。結局、好きなん? それはハッキリしといた方が良いよ。うやむやのままにされたら、ミラっちも死に切れないよ」

 癌の遺伝を初めて知った時──イタリアンレストランで添えられたセリフを、俺は思い出していた。
 ──これで最後にしましょうか。
 やんわりとフラれた。交際直前の雰囲気だったのに。好意を伝える前にフラれて、再失踪。

「でもソレって『後腐れを無くすため』なんしょ? なら今はもう違うじゃん」
「そうなんだけども……」

 踏ん切りつかない俺の様子に苛立ったのか、ヘリオスはピシリと言い放った。

「後悔してからじゃ遅いよ。逝ったら何も出来ないんだよ? アタシだったら隣にいてくれる人から隠し事されたら嫌だよ」
「まぁ、ね」
「ちゃんと伝えてあげなきゃ可哀想だよ。さっきだって具合悪そうにしてたじゃん。もう長くないの、アタシから見たって明らかなのに。1番近くにいるならさ、トレぴが1番分かってるんじゃないの、ソレ?」
「……分かってるよ」
「じゃあ、好きじゃん」
「そうだよ。好きに決まってるだろ。大好きだよ。心の底から愛してる」
「ッしょ〜? じゃあすることは1つ! あの2人は連れ出しとくから! まぁウチらに任せとき!!」
「マジでか。急過ぎて心の準備が」
「そっか〜。じゃあ良いこと教えたげる。耳貸して」

 俺は右肩を少し下げてヘリオスの高さに合わせた。彼女の吐息が、耳たぶにぬらりと吹きかかる。波に掻き消されそうなくらい小さな声で、囁いた。

 

「ミラっち、トレぴのこと好きだって」

 

 心のどこかで知っていたような感覚が、ハッキリと輪郭を伴った。

「恋愛的な意味で? マジ? 嘘? 何で?」
「マジマジ。大マジ。この前聞いてみたら、めっちゃ顔赤くしながら教えてくれたんよ。普段クールなのに、コッチ方面はてんでダメなんよね。でもまぁ案の定『もう後がないから』って、トレぴと似たような理由捏ね回しててさ」
「うわ。めちゃくちゃアイツっぽいな」
「でしょ?! でもこんなにもお似合いで激シャバいカップル、他に居ないワケ。そりゃくっつけたくもなるべ。てかピンポイントで海選んで『夕日見たい』って言ってるんなら、もう“待ってる”じゃん。雰囲気サイコーじゃん」
「まぁそうよなぁ……」
「ちな、お嬢もゼファ子も知ってるから。そこんとこヨロ〜」
「ッは?!」
出来レースだから大丈夫っしょ。まぁ事後承諾はご愛嬌てことで。じゃあ言ってこい!」

 ヘリオスは背中をグイと押した。俺は岩陰から押し出された。思ったよりも力が強くて、少し咳き込んだ。ピピピ、と再び携帯が鳴る。夕暮れの合図。17時30分。メインディッシュ。
 ミラクルは上半身を起こしていた。ゼファーが背中をさすっていたから、まだ体調が悪いらしい。ルビーは立ち上がるなり俺に言った。

「念の為、ダイイチグループの医療班を待機させておきます。では私たちは、先ほど置いてきた車椅子を取って参ります。そうですね、およそ15分程度でしょうか。なるべく早く戻ります。“頑張ってください”ね」
「ウス。頑張りゃッす」

 背中をさする役は俺が引き継ぐ。ゼファーが「フフッ」と頬を緩めて言った。

「そう緊張なさらず。貴方様に、恵風があらんことを」
「サンキュー」

 位置について、ヨーイドン。
 車椅子回収係の3人は、目的地目掛けてスタートを切った。すぐ見えなくなった。
 俺はミラクルの左隣に座った。2人で体育座りをした。

「席外して悪い」
「いえ」
「時間だね」
「はい」
「体調大丈夫?」
「さっきよりかは」

 彼女は鼻先を膝の上にくっつけて、唇をジーンズに押し当てた。視線は遥か先を捉えてる。その凛々しいまつ毛が、クッキリとした色艶を纏っていた。
 見慣れた横顔なのに、俺は少しドキリとした。

「凄いですね」

 ミラクルの指先が捉える先を見る。そこで俺たちは悦に浸る。エモーションなる言葉の意味を当てはめるなら今しかない。

「ね。凄い。本当に」

 メラメラと、地平線が茜色に燃えている。西へと流れる太陽はバターのように溶け出ていく。周りの雲々を焼き焦がして、つぶらな星々を散りばめる。カラス達は長い夜と同化するために喉を震わせる。
 メインディッシュは、広告と似つかない色合いだった。ブラッドオレンジと言い表せないほどに赫い。それは彼岸花のような、ミラクルを模した花言葉に満ちた色をしていた。

「これはこれで綺麗ですね。でもなんて言うか、ここまで赤いと」
「そうだね。まるでミラクル色だ」
「『情熱』ですか。偶然なのかもしれませんが、その海に沈む様子にも妙な繋がりを感じてしまいます。どんなに赤い太陽も、いつかは地平線に沈んでしまうんですよね」

 それはきっと、蒼の彼岸花を指しているのだろうと思った。

「まさか。妙な繋がりなんてとんでもない」

 俺は沈みかけたピンポン球を指さした。時計回りにグルリと1周させる。同じ地点に戻して、続けた。

「太陽は何度だって昇るんだ。夜を経験しても諦めずに、100回でも1000回でも帰ってくる。諦めたらそこで?」
「──試合終了。ハハッ。ちょっとだけ、本当にちょっとだけ上手いですね」
「でしょ。だから沈むなんて言わないで欲しいな」

 君が大人になっていくその時間は、降り積もる間に俺も進んでいく。そこで止まってしまったら2度と追いつけない。沈みそうになっても、それが例え美学に反していようと足掻けば良い。いや足掻け。
 ミラクルは決して「嫌だ」と断らなかった。何かを言いかけて止めて、体育座りを崩した。両膝を伸ばしたら足首まで浅瀬に浸かった。十数分前よりも、僅かに冷たい。
 少しだけ、お互いに間が開いた。妙にしんみりとした雰囲気だったから、俺は切り出せないままでいた。今か今かとタイミングを伺っていたら、ミラクルに先を越された。

「トレーナーさん」
「ん?」
「禁止令についてなんですけど。たしか隠し事も禁止、でしたよね?」
「うん」

 彼女は「じゃあ言わないとな」と続ける。

「癌が肝臓に転移しちゃったらしいんです」

 肺。それと膵臓にも。
 ミラクルは握りしめた砂を、海に向けて撒き捨てた。勢いをつけた波が伸びて、砂の城をザブンと飲み込んだ。
 膝まで濡れた。ジーパンの裾に染み込んだせいで、足首が気持ち悪い。

「そっか」

 俺は理解していた。ミラクルの余白が、もう幾許も残されていないことを。君と過ごしたかった数十年は大き過ぎて、詰め込めば詰め込むほど零れ落ちてしまうことを。理解していたハズなのに目を背けたくなる。
 指の隙間から溢れた未来ほど焦げ付いて、心に焼き目を作るんだ。そしていつの日か、いっそのこと掴まなければ良かったのだと後悔する。まるで彼女の稼いだ賞金が、母親に半端な治療を施したように。
 結局、治らなかったじゃないか。掴みかけた希望は失った。得たモノと言えば捻じ曲がった不変の概念と、1瓶の睡眠薬。父親も亡くなった。
 俺は今、彼女と同じ末路を辿ろうとしていることに気がついた。己を変えろ。掴め。
 言わぬ善より食う据え膳。
 伝えないままミラクルに旅立たれたのなら、俺は一生後悔するだろうと思った。蝋燭の上で揺れる炎みたいに、そっと消えてしまいそうな彼女のことを、俺は掴んで離したくなかった。
 この感情に名前をつけるなら、それは恋だと思っている。

「ダメだ。でも多分おれ、ひどい顔してるんだろうな。うわ、どんな顔して良いかわからないや」

 ミラクルは体育座りをし直して、そう言った。膝の隙間に鼻を埋めながら殻に閉じこもる。俺も再びシャツを手渡した。数分前まで枕として使っていたから砂でザラついていた。けれど彼女は気にもせず頭から被った。なんだか卵みたいだ。その卵が「どうぞ」と言った。プリンスの素質があるクセにいざとなったら不器用で、それでも何とか絞り出した「どうぞ」がどこまでも君らしかった。
 彼女は背後の白砂をポンポンと叩いた。そこに座れと言う指示なのだろう。表情を隠したのはそのヒドい顔を見せないためでもある一方で、照れ隠しでもあるのだと俺は思った。

「寒いね」

 俺はいつの日にかついた嘘を、もう一度つき直した。彼女の背中側に座って、両脚を開いてミラクルを挟み込んだ。太ももの間にスッポリと納まった。前屈みになったら、彼女も僅かに腰を引いた。浮き出た肩甲骨が俺の胸板に当たった。

「寒い時は肌と肌をくっつけ合うんですよね。そうすれば、芯まで暖かくなれる」

 求められたから俺は両手を腰に回した。ウエストが驚くほど細かった。抱きしめたらポキリと折れてしまいそうだ。抱きしめた。そのまま体重を預けてくれたから、嫌がってないことは分かった。
 ぎゅう、と二の腕に力がこもる。

「おれ、不安なんです。どんどん細くなっちゃって。心まで擦り減って、いつか折れてしまいそうで」

 手の甲に彼女の掌が重なった。骨が浮き出ているせいで、俺よりも小さいクセに硬かった。

「だから支えるって言ったんじゃん」

 卵の殻を剥がして、おでこをつむじにコツン。その青髪から仄かに、シャンプーのラベンダーが香っている。彼女の両ミミが俺の前髪でスリスリと甘えていた。
 そうして俺達は日没を眺めて過ごした。肌を撫でる風が次第に冷たくなる中で、そこだけが静かな熱を持っていた。あの3人が永久に戻って来なければ良いのにな。残された15分のタイムリミットが、どこまでも短く思えた。

「見たいモノは見れた?」
「はい。もう2度と忘れません。おれのワガママに付き合ってくれて、本当にありがとうございました」
「俺も。良かった」
「じゃあ、そろそろルビー達も戻ってくると思うので。帰り支度をしましょうか。

 ミラクルはヨロヨロと立ち上がる。今にも転びそうだった。支えるために俺も立ち上がった。パチリ、とお互いに目が合った。
 あぁ──今しかないな、と俺は思った。

「ねぇミラクル」
「なんでしょう?」

 彼女はカクリと首を傾げて微笑んだ。

「言っても良い?」
「どうぞ」

 多分向こうも分かってる。
 だから、言った。

「俺と、付き合ってくれませんか? 短い間かもしれないけど、絶対幸せにしてみせます」

 俺は目を合わせたまま右手を差し伸べた。
 ミラクルも手を伸ばしながら口を開ける。

「────────」
 
 ──あれ?
 明らかに様子が変だった。返事が、全く聞こえない。口をパクパクと開いているのに、声だけが出ていない。いくら踏ん張っても、掠れた呼吸ばかりが空を切る。
 彼女は俯きながら前後にフラフラと揺れている。両手で、グッと胸元を押さえた。それは今にも心臓を抉ってしまいそうな手つきで、どう見たって異常だった。

「おい!? 大丈夫か?!」

 ゲコッと、横隔膜の膨らむ音がした。どう考えたって大丈夫ではなかった。彼女は一切の受け身を取ることなく、後ろ向きに倒れた。間に合わない。背中を砂場に叩きつけた。「ガハッ」と、宙を舞った赤い飛沫がシャツに斑点を刻む。
 俺は急いで駆け寄った。ヘリオスとゼファーが泣きながら岩陰から飛び出した。ルビーは、右手で合図を出していた。緊急搬送。返事を言わないまま、ミラクルは意識を失った。
 彼女の吐き出した液体は、夕焼けよりも赤かった。

 

【伝えようとするたびに不幸が舞い降りる。リミットは残されてない。進もうよ、残された道を全力で。蒼色の花言葉──その空白を埋めるために、前へ前へ】

 

[chapter:3.]

 結論から言えば、ミラクルの吐血は中治りの代償だった。死に際の患者が突如としてラーメンを完食できる、寿命の前借りだ。投薬治療による一時的な回復は延命措置に過ぎなかったらしい。とうに、身体は限界を迎えているらしい。ウマ娘でなければ既に亡くなっているほどだと、医者は言う。限界に達したタイミングは、彼女にとっても俺にとっても最悪だと言わざるを得なかった。
 彼女がHCU(高度治療室)から帰ってきたのは、沖縄の総合病院に搬送されてから27時間後の出来事だ。意識が回復するまでに、それから3日を要した。0856室に戻ったら1週間が経っていた。
 吐血のショックなのか、告白のシーンを覚えていないようだった。直接確認したワケではないけれど、一緒に見た夕焼けの景色すらも朧げだ。朦朧としているならば、その先の出来事までは恐らく。色恋沙汰にうつつを抜かしている状況でもなければ雰囲気でも無かったのだ。もう、忘れよう。
 癌の多臓器にわたる転移は症状の悪化を示している。東京医大病院で精密検査をしたところ、担当医から最悪の事実を知らされた。

「癌の転移が想定よりも早く、もう手の施しようがありません。もっと早期から治療していれば……。完治は難しいでしょう」
「そんな……」

 ステージ4。
 その簡素な5文字がミラクルの容態を的確に表している。そのステージに移った患者の半分は2年も生きられない。5年生存率でさえ4.4パーセント。完治となれば宇宙で生命体を発見するくらいの確率だ。以前読んだ資料に書いてあった。

「ですから、できるだけ長くミラクルさんの隣に居てあげてください」

 俺は、その「ですから」に込められた真意を推察した。もう長くないですから。きっと、そういう意味なのだろうと思った。
 ──そんなの分かってる。
 分かっている。理解だってしている。しかし専門医からハッキリと言われれば、心に刺さるモノはある。死神の足音が聞こえる。
 沖縄旅行を終えたら、退屈な日常が戻ってきた。アイツは病室に閉じ込められて、俺はトレセン学園に勤務する。ミラクルが回復していた頃は平日も休日も一緒だったのに、今となっては。
 まぁ、有給を固めた代償だ。旅行は理事長にムリを通したからこそ実現している。鬱蒼とした気分だったのに、仕事は多忙を極めた。ミラクルとは、お見舞いという接点はあったから辛うじて耐えられてはいたけれど。
 0856室に立ち寄ると必ず、彼女は長袖の患者服を着ていた。6月中旬。季節感のある人であれば間違いなく汗をかくはずだ。──はずなのに、彼女の柔肌に触れるコットンはシーツよりも白かった。顔色は、言わずもがな。

「カイロいる?」
「ありがとうございます」

 貼らないタイプのやつを1つ。俺はシャカシャカと振ってから、彼女のうなじに押し当てた。まだ寒いと言われる。
 肝臓を患ったせいで、彼女の肌に黄疸が浮かび上がるようになっていた。マリーゴールドを贈った、あのお爺さんを彷彿とさせる。肝臓は、熱を最も効率よく生産する臓器だ。そこに転移したとなれば、基礎体温と新陳代謝は低下する。34℃前後。人間ですら低いとされるのに、ウマ娘なのだから尚のこと。
 ウマ娘の免疫機能は強靭だ。薬を変えれば効果が現れる場合がある。どれもその場凌ぎに過ぎないとは言えど、ミラクルもその例だった。体調が安定した時は、彼女も帰宅した。
 ヒトをダメにしていたソファには座らない。膝を折り曲げると痛いんだってさ。ミラクルは硬いベッドを好んだ。代わりに、俺がダメにされていた。案外、これでも寝られるんだなと思った。
 やりたいことなんて、他にもいくらでも残っている。墓参りをしていなければ、海外旅行にも行っていない。加点できる要素はあれど、身体が追いつかなかった。食べ歩きだって、海辺で食べたアイスが最後。外食はおろか、作り置きの唐揚げさえ食べられなくなっていた。
 なら、揚げたてならどうだろう。

「いくつ食べられそう?」
「1つもらえれば、それで」

 1つとして胃に収まらなかった。ひと口齧って、ごちそうさまでした。トイレで吐き出した。これじゃあ食べてないのと同じですね。冗談じゃない。笑えない。
 吐き出していれば栄養が偏るに決まっている。俺の元担当バは現役の面影を残していなかった。マッサージの際に、ふくらはぎを揉むと良く分かる。あれほど固かった筋肉が、今ではプルプルだ。脂肪に変わっている。骨と皮のみでないだけ、俺は幸せだと思うべきなのだろうか? 答えは出ない。
 回復期も、まばらになって行った。点滴の世話になる頃から一時帰宅も不可能になった。シーツに絡んだ尻尾の毛。まるでブラッシングをした時のように抜け落ちていた。
 仕事がない日は見舞いに通う。というか、残業後であろうと行った。家にいる時間よりも病院で過ごす時間の方が長くなった。だがら、ずっと、隣に居た。

「あっと言う間だなぁ、トレーナーさんといると」
「ありがとう、で良いのかな」
「なんだか申し訳ないです」
「何が?」
「いくらトレーナーさんに恩を返そうとしたって、ずっと隣にいるんですもん。まったく、いつまで経っても返しきれないな」

 うっすらと、ミラクルは目を細めてそう言った。

「別に、返さなくたって良いのに」

 病院で過ごす時間に反比例して、彼女の口数は減っていった。横たわるようにもなった。
 そんな時は読み聞かせをする。彼女が最も好きな絵本だ。俺はそこで初めて、勝負服は白鳥がモチーフであることを知った。
 担当の枠組みすら超えて一緒に過ごそうと、知らないことがあった。時間が足りないな。再開してから1年未満。伴侶として過ごすならば、あまりにも短いなと俺は思った。
 やはりミラクルの知りえない側面なんて他に幾らだって存在していて、それが例え悠久の時を経て分かち合うような感情だったとしても、いつしか一方通行になるのだと悟った。
 どうしたって、返答に困る言葉ばかりが積み重なる。

「海外旅行も墓参りも、厳しそうですね」
「うん」
「だから、次が最後のお願いです」

 ミラクルは数多ある欲望を、最大公約数で割り切った。満足すると決めたのだ。加えられなかった点数を、共通項で括りきった。

 

 
 6月下旬。22時。夜に帳が下りるように、病院の窓もピンク色の布で覆われている。カーテンの隙間からは楕円形の月が覗いていた。
 1階のナースステーションに看護師が2人。きっと夜勤なのだろう。真っ暗闇の中で、そこだけが白い光を放っていた。テレビの液晶を、うっすらと照りつけている。もう、お決まりのワイドショーは流れてない。
 空調が薄まれば肌寒い。ミラクルは真冬に着るような厚手の患者服を身に纏う。俺も長袖を着た。ワイシャツに、柄物のネクタイを固く締める。
 今宵、特別な演奏会が開かれる。今夜限りの旋律をロビーに響かせる。観客は旅行をした時の4人。聞こえるのはファのシャープ。静謐な夜ほどピアノの音がよく通る。
 あまりにも突飛な要求だったけど、ミラクルの容態を考慮してなのか、許可された。俺達は受付を済ませて、最前列に着席する。待機用の椅子を大ホールのソファに見立てた。

「みんな、来てくれてありがとう」

 ミラクルは鍵盤蓋に指をかけて両手で持ち上げた。白いキーボードが露わになる。人差し指で鍵盤を軽く押し込んだ。ポーンと響いたドの音階。左足でペダルを踏みながら、ゆったりと調律する。少しだけ、透き通って聴こえた。

「この曲は、いつ弾けなくなるんだろうな」
「明日かもしれませんし、1ヶ月後かもしれませんね」
「全身に刻むよ」
「ありがとうございます。そうですね、覚悟を決めましょう。今日で最後にします」

 ゼファーが寂しそうに呟いた。

「最後なのですね……」
「うん。でも、お別れじゃないよ。これは約束なんだ。みんなとの、約束」
「約束……?」
「そうだね。でも誓いとも言う。これは約束であり、誓いでもある」

 ミラクルは1人で納得したように頷いて鍵盤と向き合った。
 夜想曲:第2番。
 それはいつの日か聴き入った──別れの旋律だ。彼女はメロディーに身を任せるために、体をユラユラと左右に揺らす。鍵盤の上を滑らせながら指とピアノを温める。
 彼女が少女のために弾いた時のことを、俺は今でも覚えている。人々は足を止めて、彼女の演奏に魅せられていた。世代の違いなど関係ない。走り回る子供から点滴を挿したお爺さんまで、皆が聴き入っていた。演奏が終われば拍手喝采。君は注目の的だった。

 ──テ、テン、トントン、トン。

 指揮者の居ない演奏会は、葉先の朝露が蓮池へと滴るように始まった。看護師さんがめくる書類の音やソファの軋みをなぞりながら、ピアノの音色は夜を駆ける。網戸の隙間を通り抜けた旋律は、夜空の冷たさを調べている。
 リピート。フィーネ。ダルセーニョ。
 空前の灯火を紡いで紡いで、閉じかけたコンサートを繰り返す。ミラクルは親子2代で弾き継いだ夜想曲を締め括ろうとしなかった。
 ピアニッシモなんて知ったことか。背中の産毛が反り返るほど強く、鍵盤を叩きつけた。カーテンがバサリと宙を舞う。それなのに、彼女の音色は以前よりもずっと弱々しく聴こえた。
 ふと、演奏が止まった。

「──ッ」

 彼女は左手の薬指を押さえていた。攣ったらしい。手を握ったり離したりしながら指の感覚を取り戻す。

「大丈夫か?」

 彼女は少し頷いた。胸の前で小さな拳を作って、キュッと握った。

「ねぇトレーナーさん」
「どうした?」
「……命の手触りって、こんなにもザラザラしてるんですね」
「うん、本当にね。ザラザラしてるせいで擦れたら痛いのに、不思議と美しいでしょ?」
「えぇ、どうしよもなく。あぁ、誰かさんのおかげで生きたいって思うようになっちゃいましたよ。なんの凹凸もないサラサラな人生に美徳を見出していた、あの頃の自分が信じられないくらいです」

 ミラクルは細かく震えた声を、暗闇に溶かしきった。

「あ、あの、おれ、目を閉じたら、もう2度と目覚めないんじゃないかって。日に日に起きていられる時間が減っていって、もうダメなんじゃないかって考えちゃって、それで」

 もっと早く出会えていれば。もっと早くから治療をしていれば。癌を分け与えてもらって、苦しみを分かち合えたのなら。
 お互いに、拭えない後悔だけが重なり合う。

「死にたくないよ、トレーナーさん」

 ダメだった。
 嗚咽が勝手に漏れていた。

「眩しいなぁ、もう」

 ミラクルは鍵盤に両手を添えて、途切れた曲を紡ぎに戻った。
 フォルテ。メッゾフォルテ。フォルテシモ。
 大粒の涙が枯れるまで、その指を止めなかった。

 

[chapter:4.]

 その日を境にして、ミラクルはピアノに触らなくなった。車椅子に乗る頻度も減って、病院のベットに縛りつけられるようになった。
 本人は明らかに衰弱していたし、決別とも言っていたのだ。今日も満足そうに空を眺めている。恐らく後悔は無いのだろうと思う。
 それとは裏腹に、やりたいことは日に日に増えていった。思い出したら、その都度メモ用紙に書き溜める。俺達は加点リストを作った。

「結婚式を挙げて。ケーキ入刀をして」
「うん」
「最後にブーケトスをしたいですね。せっかくならルビーに受け取って欲しいなぁ」
「アイツなら大丈夫でしょ。政略かもしれないけど」
「えぇまぁ。そういうのも含めて、です。あぁそれと、子供を産んだり家庭を築いたり、そういうこともしてみたかったなぁ」
「なるほど」

 叶いませんけどね。白い壁にドサリともたれかかって、そう言った。

「……うん」

 縦に書き連ねた願望は、全てが悲願に違いない。彼女は決して達成されることのない絵空事を、物語チックに構成する。

「12歳で担当になってくれる人と出会って、そこから3年間を過ごすんです。で、卒業してからは病気に罹ることなく社会人して、ごく普通なウマ娘として生きるんです」
「理想的だね」
「う〜ん? でもダメですね。具体的じゃない。喜劇なら登場人物の名前まで決めないと」
「喜劇?」
「はい。これはトレーナーさんとおれの未来を描いた物語です。決めきれなかった花言葉を、2人で探すお話でもあります」
「それって──」
「はい」

 彼女はウッドデッキに飾られた蒼い彼岸花をチラリと見て続けた。

「そろそろ再開してから1年が経ちますね。本当に短かったなぁ」
「俺もだよ、ホント。信じられないくらい濃かった」
「ハハッ。トレーナーさんが『一緒に蒼い花言葉を探そう』って誘ってくれたのが半年前なんて、今でも信じられませんよ」
「──探しきれた?」
「いえ。たった半年じゃ難しかったです」

 彼女は「ですから」と繋げる。

「生まれ変わって、また2人で会いましょう。数十年後、いや──数百年後に答え合わせをすれば良いんです。蒼い彼岸花の品種改良が成功していると信じて。その時に、必ず会いにきて下さいね? 約束ですよ」
「うん。約束する」
「絶対の絶対の絶対に、です。トレーナーさん、なにを禁止してもダメだったじゃないですか。だからせめて、これだけは守って下さいね。破ったら…………おれから会いに行きます」
「うはっ、最高じゃん」

 クスリと、イタズラっぽく微笑む彼女がいた。それは君もだろ。バレましたか。2人で笑い合う。白い牢獄も、雰囲気が和やかならば多少はマシになる。
 気持ちを伝えるなら、最後のチャンスだなと俺は思った。

「やっぱり俺、ミラクルのこと──」
「ダメですよ。その台詞は来世で伝えてください。待ってますから」

 ミラクルに、シャツ襟をグイと引っ張られた。パイプ椅子に座っていたせいでよろけて、少し前屈みになった。
 ミラクルは上半身を起こしたまま、静かに唇を寄せる。ピトリと、柔らかな感触が俺の唇に張り付いた。
 遥か空の上を飛ぶ飛行機が、カラスと共に駆けている。子供達の足音が廊下を駆け抜ける。薄い扉1枚を挟んだ先で、甲高い笑い声が響いている。ピッピッピッと、モニター心電図が波打つ。何度か大きく上下して、再び1本の線に戻る。どれくらいの時間が経ったのか、俺は分からないままでいた。少なくとも、イチゴの味は嘘だった。
 ぷはっと息を継いだのはミラクルだ。ベットシーツを頭から被って、久しく見ていなかった卵になった。海で貸したシャツよりも白かったから、より一層卵そのものだった。ボフン、と勢いよく顔を枕に埋めて言った。

「おれって、幸せ者だなぁ」

 俺は学生が伝えるような、青い言葉を曝け出そうとしたけれど、止められた。ミラクルはベットシーツの上から唇にバッテンを作る。

「いつかお爺さんが言っていたこと、覚えてますか?」 
「……?」
「足掻いてる人は生きる希望を与えられた瞬間に、天国に行っちゃうんですよ」
「……そっか」
「それを聞いてしまったらおれ、嬉しくって多分──ダメになっちゃいそうで。だから来世でお願いします。イジワルでも何でもなくて、そう、これが『誓い』です」

 なるほどな、俺はゼファーに返していた答えの意味が、やっと腑に落ちた。
 ──これは約束であり、誓いでもある。
 あの時は理解できなかったけれど、今は驚くほど腑に落ちた。そんな気がする。
 ミラクルは「本当はね」と打ち明けた。

「保健室にカスミソウを持って行ったあの日、トレーナーさんと会うつもりなんて無かったんです。窓の外からチラッと見かけて即退散。ひと目見れたら、ソレで満足するつもりでした。そのつもりがまさか。いやぁ、運命ってヤツなんでしょうか?」
「ね。ヘリオスも言ってたなソレ。確かに、その通りかもしれない」
「そうなんです。良い意味とは言え、おれの人生はそこでメチャクチャになったんです」

 彼女は笑みをニヤニヤとした浮かべている。自然と表情を和らげて、ひたい同士をくっつけた。コツン。俺より温かい。パチリ。目と目が合う。

「責任をとって、おれの分まで生きてくださいね。前に進んでください。振り返っても良いですが、決して足を止めないように。分かりましたか?」

 自分のために生きろ。
 要約すれば、そんな意味なのだろうと俺は思った。根掛かりした言葉を喉の奥に引っ込めた。静かに頷いたら、彼女も首を縦に振った。

「ありがとうございます。うん、やっと安心できました。こういう時に『感謝』の言葉を伝えるなら、カスミソウ一択なんですけど……」
「あぁ、懐かしい」
「まぁその、あいにく今は手持ちがないので、これで許してください」

 ミラクルは唇を近づける。俺は目を合わせたまま最後のキスを──しなかった。彼女から、張り合わせていた額を剥がした。

「お寝覚めの口づけは王子様から、でしたよね」
「俺から欲しいってこと?」
「えぇと……。確かに合ってはいますが」

 彼女はヤレヤレと首を横に振る。その両頬に赤い熱を灯していた。頬にひと口の空気を溜めて、言った。

「説得された時もそうでしたが、本当に鈍感ですよねトレーナーさん」
「ごめんってば……」
「まぁ、ある意味で強みなのかもしれませんね。そのお陰で、おれは新たに踏み出せた。だからもう1歩だけ、あと1歩だけ、おれに勇気を与えてくれませんか?」

 まったく俺という男は。
 最後までリードされっぱなしじゃないか。

「ごめんね」
「あっ、謝った。イケナイんだ」
「あぁ……すまない」
「ほらまたそうやって──」

 覚えのあるやりとりだなと俺は思った。そして、あの時は逆だったなとも思った。感動すらも覚えている。月日が、俺の望んだ本来あるべき人の変え方をしていた。
 俺はミラクルをお姫様抱っこで持ち上げた。1本の背骨が右手首に当たる。クッキリと浮き彫りになっていた。彼女は車椅子よりも軽くて、どこまでも運んで行けそうだった。
 少し恥ずかしそうに、彼女は尻尾の先でベッドシーツをパサパサと叩く。

「お手柔らかに」
「はい」

 そして俺達は、交際0日の恋を終わらせた。口づけに1度だって守れなかった「最後」の約束を添えた。また来世で交わせば良い。この約束だけは守り抜いてみせる。
 最期って言葉の儚さ。果たせない約束。何度交わしても叶わない。それなのに花々の言葉で飾り付けた思い出に、君のいなかった日々はない。
 唇を離すまでずっと、彼女から香るモルヒネが舌の裏でジワリと痺れていた。

 

 それ以降ミラクルは治療を打ち止めた。代わりに苦痛緩和を選択した。余生に価値を見つけたから、と自主的に退院したのだ。俺の家に居たいんだってさ。最後の最期に、0856室から抜け出した。
 処方されたモルヒネで痛みを抑えて、人をダメにしてもらって、たまにピアノを弾きに戻って、唐揚げを作っていた。満点なんて、とうに飛び越えていたと思う。
 退院したら余命分──もう1年分の入院費用が返ってきた。ミラクル曰く

「生活費に当てて下さい」

 とのこと。俺は全額受け取って休職した。快く許してくれた理事長には頭が上がらない。そして、その資金でグランドピアノを買った。
 遠出することは叶わなかったけれど、それがあれば事足りた。ミラクルは弾かないから、俺が練習する。人って、本気で取り組めば大抵は解決できるんだ。俺の上達は早かった。楽譜を読めなければ音楽記号も読めなかったけれど、隣に専属コーチがいたから。
 ノクターン第2番。
 俺の奏でるノクターンは別れの曲なんて言えなかった。鍵盤を押せば押すだけ音が大きくなる上に、弾き方次第でアップテンポにもなる。人の笑顔が似合っていた。それで良かった。高速で弾いたりキーボードを大袈裟に叩いてみたりして、2人でバカ笑いしていた。アレンジのせいで、もはや出会いの曲なんじゃないかって思えた。
 晩年までには、どこに出しても恥ずかしくないレベルだった。仕上がっていると言って良い。半年以上かかったけど、まだ彼女のミミは微かに動いていた。演奏した時だけ、先っぽが僅かに揺れるのだ。もう声は出さないし目だって開かない。でも俺が弾く時だけは口角がうっすらと弧を描くんだ。
 独り言が、段々と増えていった。

「ねぇねぇ、初めてミスしなかったよ」

 そのうちミミがピクリとすら動かなくなった。枕に力なく垂れる様子が、まるで朽ちた花びらのようだった。
 段々と寝返りの頻度が減っていった。目を瞑ったまま天を仰ぐ。離乳食みたいな食事ですら吐き出すようになった。毎日欠かさず服用していた薬も、首を外らして拒むのだ。
 本当に痩せた手首だった。指の輪っかで囲めるほど細くて──ダメだった。
 親指が静脈に触れたから脈を測って後悔。既に音も光も匂いも、殆ど。
 握った手のひらは驚くほど硬くて、まるでガラスみたいだ。それでも握り続けるしかなかった。肌の温もりでガラスが溶ければ良いのにな。そう思っていた。まぁ、俺たちの恋がマグマのように煮えたぎっていれば、溶かしてあげられたのかなとも思っていた。

「ここに居るよ」

 俺は窓辺と腕時計を交互に確認する。筋の浮いた右手をギュッと握りながら、時刻と景色を見比べる。
 秒針は普遍的に進む生き物だ。止まってくれやしない、どれだけ祈ろうと。永遠にすら思えるコンマ1秒がカチカチと連続する。
 プァッーッと、軽自動車のクラクションがクロノスタシスに亀裂を入れた。一瞬遅れて、閉じ込められていた俺の無意識が十字交差点の信号機を捉えた。
 黄。
 赤。
 青。
 LEDの液晶がチカチカと明滅を繰り返して、やがてピタリと停止した。
 終わりが来たらしい。
 机上の金魚鉢に君とのヒガンバナが揺れている。フローリングに散らばった花びらは、見上げた空のように蒼かった。
 たとえ君が覚えていなかろうと、天国のどこでも会えなかろうと。俺は、君に、何万回でも恋をする。

「待っててね」

 100点なんて飛び越えて、羽ばたいてくれよどこまでも。少し時間が掛かるけれど、俺もいずれ後を追う。いつか昇りきったその先で、君の肩を叩いてみせる。もしも君を見つけられたら、カスミソウを贈ってよ。

 

[chapter:5.]
 
 ミラクルの死後、俺はトレセン学園を辞めた。トレーナー業から退いたのだ。有名でもなければ担当もいない。そこまで話題に挙がらなかったのは幸運だったと言える。
 貯金は腐るほど溜まっている。生きるのに苦労はしていない。ヘタに贅沢をしなければ、働かなくとも平均寿命くらいまでなら耐えられる。
 あいつはケイエス家最後の1人だったために、亡骸は血族関係が最も近い親族に引き取られたらしい。人伝だ。俺は交際すらしていない身──赤の他人である以上、不干渉。しかし親族らによるご厚意のお陰で葬儀には出席できた。沖縄旅行ぶりに4人で集まれた。
 本当に小規模な葬式だった。集まったのは近しい親族と、学園時代に仲が良かった者数名。G1を制した者の儀とは思えないほど、簡素な式だった。密度が濃いほど雰囲気の伝播は早い。さめざめ泣く者もいれば、えんえんと泣く者もいた。俺は──大人として恥ずかしいくらいだったので、ここでは黙秘させてもらう。
 通夜で、彼女の遺言を知らさた。

『遺産は全て──に相続すること』

 俺の名前が記されていた。生活費に当てろと言われた金も併せて相続した。サイズの合わないワイシャツやイヤーカフ、車椅子にタオルケット。全てを受け取った。
 いまだに彼女が生きているような気さえする。洋服類をクローゼットにまとめたら、辺りに彼女の匂いが漂った。フワリと感じるたびに、良い匂いだなと。だがこの香りが時を経て俺の匂いに染まるなら、それは少し寂しいような気もした。それでも進むと決めている。
 それ以降、俺は追悼の旅をするようになった。ミラクルがしていたように全国を回る。そこは北海道だったり京都だったりした。彼女が生前に行きたいと望んだ場所だ。イヤーカフをポケットに仕舞っていれば、そこにいるかのように感じられる。そうやって、俺達は時間を共にした。ほら見えてる? 君が行きたがっていた場所だよ。
 花を供える点は、ミラクルがしていた感謝の旅と変わらない。でも供える花は1種だけだ。赤の彼岸花を各地に散りばめていく。そうすれば彼女が喜ぶように思えた。
 とはいえ墓参りのために、俺は数ヶ月単位で東京に戻るようにしている。供物は唐揚げ。家でたっぷりと揚げてきた。今日もラフランで赤い彼岸花を買う。
 俺は顔見知りの店員さんに訃報を告げた。10本もサービスされた。流石に申し訳なさが勝つ。代金を支払ったら2倍に増えた。20本。どうしようコレ。
 とりあえず墓場まで持って行くことに決めた。ヘリオスとルビーが先に到着しているらしかった。

「うぇ〜いトレぴお久!!」
ヘリオスさん。ここは追悼の場です。お静かに」
「うわスマン。お嬢の言う通りだわ。良くないよねウチ……ゴメン……」
「まぁ、まぁ。いつも通りにしよう。それがミラクルの意思でもある。遺言状に書いてあった、みんな自分らしく生きてくれって」
「そうなのですね……。教えていただき、ありがとう存じます」
「うん。えーっと……ゼファーはどうなんだろう?」

 俺は辺りをキョロキョロと見回した。しかし墓石がズラリと並ぶばかりで、彼女の姿は見当たらない。
 ルビー曰く、ゼファーは遅刻するとのことだった。意外だ。確かに彼女は昔から風に流されて、フラフラと彷徨う癖があったけれど。

「まぁ、そゆこともあるっしょ。先にやれることはやっちゃうべ」

 ルビーの墓は母親の左側に建立されている。皆で掃除して水を掬い掛けて、供え物をしてから線香を上げる。3人もいれば、終わらせるのに15分とかからなかった。
 手を合わせようとしたタイミングでゼファーが到着した。
 
「あの……。遅れてしまい申し訳ございません……」

 間違いなくゼファーの声だった。しかし、そこにカァカァと鳴く鳥の声が混じっている。振り返った俺からは変な声が出た。出さざるを得なかった。

「うおっ?!?」

 ゼファーの右肩に、1匹のカラスが止まっているのだ。右翼を少し広げて存在感をアピールしている。

「いや急過ぎて全ッ然状況掴めないんだけど、なにごと?」
「何と言いますか。私、西新宿駅からここまで歩いて来たのですが。その途中で心地よい風を感じたので振り返ったら、この子がいまして。ずっと後ろを尾けてくるかと思えば、ふと肩を掴まれたので」
「逃がすのに苦戦してたら遅れちゃったってこと?」
「……はい、その通りです。大切な集まりにも関わらず遅れてしまい、大変申し訳ないです」
「これは仕方ないよ。それにしても、どうしたんだろこの子。どこか怪我してるってワケでもなさそうだし」

 俺が右腕を差し出したら、カラスはピョンと飛び乗った。本当に乗るとは思わず、また「わっ」と変な声が出た。シャツの上から鋭い爪が皮膚に食い込む。痛くはない。カラスは腕、肩、と飛び移った。
 菌を保有しているから触るべきではない。しかし俺の手は自然と伸びていた。人差し指で頭のてっぺんを撫でてやる。カラスは気持ちよさそうに目を細めたまま、首を斜めに傾げた。

「人懐っこいなぁ、おまえ」

 本当に。普段の姿から想像もできないほどである。近づいただけで飛び立つクセに、今日はどうしたのだろうか。個体差もあるのかな、なんて考察をしてみる。

「カァ」

 カラスは1度だけ鳴いて俺の頭に飛び乗った。翼をはためかせながら、ミラクルの墓石にぴょんと移った。

「こらこらこら、降りなさい」

 故人の墓に乗るなんて人でなくとも厳禁だ。棹石の側面に回り込んで、俺は両手で捕まえようとした。しかしカラスは魚のように身を翻して、俺の掴もうする手を躱す。翻るがままに墓の裏側に飛び降りた。
 裏手からカツカツと、クチバシで石を突くような音が聞こえる。何をしているのだろうか? 覗き込もうとしたら、カラスがバサバサと飛び出した。

「うわっ!」

 何度も驚かしてくるな。高度を確認しながら俺の頭上に戻ってきた。目を見開きながら、ルビーが言葉を継ぎはいだ。

「トレーナーさん、その子、くちばしに、お花を」
「ん?」

 文法という言葉が、後から遅れて追いついた。

「ですから、頭の上にミラクルさんがおっしゃるようです。折角の機会ですので、挨拶をなされては如何でしょうか」
「んん?? もっと分からないけど」
「それとも──受け取ってからに致しましょうか?」

 意味が分からなかった。頭の上に止まっているので、俺からは状況を掴めない。ルビーはカラスに右手を伸ばして何かを掴んだ。

「これは……貴方が受け取るべきものでしょう。どうぞ」

 受け取ったモノを見て、俺は。

「はッ……? なんで……?」

 それは蒼々と輝く彼岸花だった。ポリエステルとはまるで違う。真昼時の日差しを吸い込んだ花びらが、そよそよと夏風に揺られていた。その花びらの先端に、まんまるな雫を残している。拝むことすらも叶わないハズなのに、蒼色の彼岸花が生きていた。
 花びらが雫を弾く喜びを俺は初めて噛み締めた。決して染み入らずそこにある。ただそこにあるだけで、案外夏も悪くないように思えた。
 
「お前……もしかして」

 カラスは言葉を理解しているみたいにカァと答えてみせた。弾かれていた雫が先端からポロリと零れ落ちる。
 彼女は俺の頭から飛び降りて、クチバシで彼岸花を咥えた。ついでに供物を突いて、唐揚げを1つ飲み込んだ。
 彼女はバサバサと勢いをつけて地平線の彼方へと消えていく。みんなで追いかけたけれど間に合わない。

「あっ、ちょっと待っ──」

 天国まで探しに来いってこと? 俺はポケットのイヤーカフをギュッと握りしめた。

「うん、どうやら変われたみたいだね」

 君はカラスであるべきだ。いずれ俺も追いつくから、もう少しだけ待っててよ。
 ──綺麗に逝くためには運命ってヤツを覆すしかなくて、黒い翼で生きる方が、いっそのこと美しかったんだ。
 ケイエス家の花立に20本の彼岸花が揺れている。パラパラと膨らむ花びらは君の唇みたいに赤かった。

「来世で、ね」

 探しきれなかった、蒼い言葉を君と作る。
 伝えられなかった、青い台詞を君に誓う。

 ケイエスミラクルの悲願-fin-

アストンマーチャンの忘却

0.【プロローグ:現実は小説よりも奇なり】

 アストンマーチャンを阻む者はいなかった。後方のバ軍から2バ身ほど抜け出している。阪神の芝1600メートル──マイルチャンピオンシップにおいて、誰もが彼女の勝利を確信していた。
 ──その時までは。
 終盤に差し掛かった先団は加速する。残り400メートルの最終直線。先頭を走るマーチャンは、つま先に力を込めた。はずみを付けて最高速度を目指す。
 だが中盤のリードが足りていない。伸び切らなかった。後方の末脚が、彼女の背後に鋭く迫っている。うなじに視線を受ける。突き刺される。背中の筋肉がブルリ、震えた。
 200メートルを通過する。あと1バ身。すぐ右後ろまで追い上げたのはダイワスカーレットだ。荒々しい息遣いがマーチャンのミミをつんざいた。
 2人で飛び出した。この競り合いで勝負が決まる。クライマックスは行方は神のみが知っている。──はずだった。スタンド席から2人を指差したのは観客だ。その指先が運命の天秤をつつく。

「おい、おかしくないか?!」

 その声はアストンマーチャンを捉えていた。声を荒げた理由は、他の者も理解している。彼女の歩幅が“開いている”。
 ピッチ走法──脚を高速で回転させるその走り方は彼女のチャームポイントだ。最適な型だが、崩れている。
 マーチャンには焦りがあった。困惑もあった。ドッドッドッと、芝を蹴り抜くスライド音が歩幅を狂わせる。後100メートル。かろうじて耐えられるか。
 ──いや。
 がむしゃらに回した脚は、あっという間に限界を迎えた。
 ちぎれる。つまずく。投げ出される。マーチャンは芝の上をゴロゴロと転がって、内ラチの鉄柵に背中を打ち付けた。
 脚質も災いした。6名の超特急が青空を横切っていく。

 ──バキリ。

 噛み合った。飛び越える最後の右脚が、彼女の後頭部をサッカーボールのように蹴り上げた。ガツン。投げ出された身体が鉄柵を揺らす。意識が雲々の分身へと白んでゆく。
 ターフに飛び出したのはマーチャンのトレーナーだ。トレーナーの心得⑤〈事故発生直後のバ体には触らぬこと〉。知るか。すぐさま駆け寄った。
 マーチャンの手を握って、彼は叫んだ。

「マーチャン? マーチャン?! 聞こえるか?!!」

 身体を揺すらずに肉声で確認する。これが彼にできる最大限の配慮だった。痙攣を起こした右脚が、ビクビクと引き攣るだけである。担架が到着してからも、一度だって彼女は目を開かなかった。
 さて“神速マイラー”の夢はこれにて終幕。その称号はダイワスカーレットに譲られた。
 彼は奥歯をぎりりと噛み締めて、すぐさま電子掲示板を確認する。1着の欄にはダイワスカーレット。1:37:98。視線の先で薄橙色の「確定」が光っていた。


1.【すれ違う2人】

 人の死を定義する時、かの者は「忘れ去られた瞬間」を引き合いに出す。ある者は「心肺の停止」を例に挙げた。その完答は存在しない。哲学と生物学は相容れない。
 医療の場において後者が優先されることなど、言うまでもないだろう。だがマーチャンにとって、それはどちらも同義だった。
 人々の記憶から抜け落ちれば“アストンマーチャン”は地に堕ちる。

「はぁ」

 溜め息を零したのは担当医もといマーチャンの母親だ。あのマスコットが歳を取ったら、こんな方になるのだろう。そう思えるほどキレイなヒト。
 だが、彼女はペン先をカチカチと忙しなく入れ替えるばかりだった。膝下まで伸びる白衣が、回転椅子からダラリと垂れている。アルコールの匂いが充満する白い箱の中で、医者としての彼女は静かに言い放った。

「靭帯損傷に肉離れ。怪我の方は全治2か月です」

 まさに今、マーチャンはその“死”に直面していた。額から後頭部にかけて包帯が巻かれている。右脚にはギプス。車椅子が移動の絶対条件となった。

「怪我の方は……?」
「えぇ。脳にも異常が無いか確認するためにMRIを撮ったのですが……」

 歯切れが悪そうに続けた。

「解離性健忘、或いは解離性遁走の兆候が見られます」
「は……?」
「なんでしょう、それは。あの、お母さん、マーチャンは一体どうなってしまうのでしょう?」
「結論から言うと、日を追うごとにマーチャンの記憶は消えていく。本当に、最悪。なんで……」
「なんと、なんと」
「では先ずこちらを」

 俺はカルテを手渡された。正常な脳と比較した写真だ。読み進めるまでもない。言いたいことなど嫌でも分かった。
 彼女の前脳──前頭葉に黒いモヤがかかっている。

「記憶組織が脳細胞ごと収縮しています。今はほんの数ミリ程度の縮小ですが、悪化してしまえば契約の解除も──」

 そう言って、彼女は手元のクリップボードに目線を落とした。マーチャンは背もたれをぎぃぎぃと揺すりながら、無言を貫いている。俺はぼんやりと蛍光灯を見上げることしか出来なかった。

「頭を打ったからですか? 治療の余地はあるんですか?」
「それが……おかしくて。神経系へのダメージならば打突による障害と診断出来るのですが。収縮となると精神的なショックが関係してると思われまして」
「精神的なショック、ですか」
「えぇ、おそらく原因はこの子自身にあるのかと。かなり強いストレスが掛かっていると思われるので、それを取り除かないわけには手の施しようがないですね」
「ストレスの原因を特定できれば、改善の余地はある、と」
「えぇ、その見込みはあるかと。あくまでも推定の期間ですが猶予は3ヶ月です。しかし解離性健忘だった場合──その原因すらも忘れ去ってしまったら諦めてください。まぁ、そんなことはさせませんが。私も専門家にあたってみます」

 俺は隣に座るマーチャンの方を向いて、尋ねた。

「何か、心当たりはある?」
「と、急に言われましても。なんでしょう分かりません」
「どんなに些細なことでも良いからさ。俺に対する不満でもなんでも、遠慮なく言ってよ」
「いえ、マーチャンは元気です」

 彼女は両手で作ったピースを口元にくっつけて、カクリと首を傾げてみせた。人差し指と中指が折れている。目も、心なしか座っているように見えた。
 母親としての彼女は耐えかねたように切り出した。

「マーチャンさんと共に原因を探ってみてはいかがでしょうか? 一時的に長期休暇を取る形にはなりますが……致し方ないでしょう」
「嫌です。せっかく成果を残せたのに、ここでマーチャンが止まってしまったら、全てにおいて意味がなくなるのです。怪我だけ治してさっさと復帰します」
「ダメだ。休養に専念しよう」
「マーチャンは嫌だと言いました。トレーナーさんなら、その意味を分かってくれると思うのです」
「分かってるよ。痛いほど分かってる。けど世間が君を覚えていたとしても、君が世間を忘れてしまったら、それは『生きている』と言えるの? “マスコット”と“人形”の違いを履き違えるな」
「なら……どうしろと言うのですか。せっかく“神速マイラー”の称号を貰えたのに。まぁ、トレーナーさんは理解できないですよね。1着を獲っても取材されなかったウマ娘の気持ちなんて」

 マーチャンはぐっ、と溜飲を下げてからそう言った。その薄緑色の瞳が、細かく震えている。
 
「何言ってんだ、負けただろ?」
「あれ? 確かに負けましたね?」
「やっぱりまだ曖昧じゃないか」
「いえ、これは事故直後のショックです、多分」
「自分で言うなよ……。あのな……なにも意地悪で言ってるんじゃないんだよ」
「むむむ」

 地面に目を伏せて、彼女は訊いた。

「……全部治したら、また走らせてくれますか?」
「うん、約束するよ」

 目標は2ヶ月。
 怪我の完治までに脳の病気も治すと決めた。

 

      ‪✝︎

 

 12月2日。授業を受けるために、トレセン学園の廊下を車椅子で進む。俺が彼女の脚になる。すれ違いざまに生徒から視線を貰うけれど、珍しいことではない。目が合えば察したように逸らされる。
 休養を発表してもメディアは大して食いつかなかった。新聞も隅に記載される程度。むしろ、称号を逃したことについて言及されていたように思う。理由は自明だった。

有馬記念インパクトには勝てないですね。記事的に」
「時期が悪かったか」
「まぁ、ある意味幸運でしたけども。マイル路線最後のG1を走れたわけですから」
「そんなこと言うなって、また来年頑張るぞ」
「はい。そのために先ずは勉学に励むのです。進級できなきゃ、意味ないので」
「頑張れよ。教室は忘れてないか?」
「……ばかにしたらダメなのです」
「冗談だって」

 到着すると見慣れた2人がマーチャンを出迎えた。

「おっ、マーチャンじゃねぇか?!生きてたか?」
「あんた生きてたって……いきなり失礼ね」
「仕方ねぇーだろ? 心配だったんだからよー」

 ウオッカダイワスカーレットだ。友達でもあり、ジュニア期からのライバルでもある。

「おやや。お二人とも。どうやらご心配をおかけしたようですね。でも大丈夫。マーチャンは灰になるまで何度でも復活するので」
「ヴァンパイアみてーだな」
「そうじゃないでしょアンタ?!」
「冗談だっての。わりーわりー」

 頭と脚に巻かれた包帯を見れば、笑い事とは受け取れない。車椅子ならば尚さら、誰であろうと。スカーレットが恐る恐る尋ねた。

「……その怪我、いつ治る予定なの?」
「そうですね。全治2ヶ月とは言われました。それと──」

 俺はマーチャンの肩を叩いて、止めさせた。振り返った彼女は頭を指さしながら言う。

「コレ、言わないで良いのです?」
「うん。今は」

 2人の頭上にクエスチョンマークが浮かんでいる。それが最善。学内に噂が広まれば動きにくい。

「まぁ聞こうとはしねぇけど、ムリはすんなよ。おまえ危なっかしーもんな」
「はい。ありがとうございます」

 形式以上の挨拶は終わり。他にも言いたい事はあっだろうけど、スカーレットは「惜しかったわね」とだけ労って俺と手元を交代した。
 次は彼女らが脚になる。教室移動も心配いらず。くしゃりと笑ってできた包帯のシワを見て、俺も笑顔を綻ばせた。
 送り届けた後は事務に戻る。やはりレースから一時的に退いた恩恵は、はっきりと実感できていた。時間がある。トレーナー室の電話ベルが、今では閑古鳥を鳴かせていた。
 俺はコーヒーを片手に考える。具体的な案を練れ。ストレスの原因を見つけ出せ。1つ分かったのは、少なくとも交友関係ではないこと。情報が少ない。とりあえず、今は様子を見る必要がある。
 放課後にトレーナー室の扉を叩いたのは、マーチャンとその友達だった。俺が出迎えようと、コートを羽織った矢先のことだ。入室した彼女は言う。

「こんにちは」
「おっ。やっほ」
「それで、どうしましょう。私は何をすれば良いのでしょう。治すためならば何でも頑張ります」
「んー……色々と考えてみたんだけどさ。とりあえず今は、休もう」
「はて? なにゆえに? 間に合いませんよ」
「正確に言えば『普段通りに過ごそう』ってことだ。ストレスかかってるなら、ゆったりするのも悪くないと思うんだ。なによりマーチャン自身が分からないんだし、リラックスしながら原因を探っていこうよ」
「……一理あるかもしれませんが。いつも通りということは……トレーニング?」
「まさか。いつも放課後は俺といるんだからさ、それだけで良いよ。この部屋に居てくれれば良い」
「ほう。なんだか休日みたいなのです」
「そうそう、そんな感じ。そうだな、小説でも読む? おススメがあるんだ」

 俺はレースの資料ファイルをかき分けて、本棚からノベル小説を引き抜いた。

「どんなでしょう?」
「『LOVEだっち』の小説版」
「そういうの、読むんですね」
「友人からの薦めだよ。意外と面白くてさ」
「やっぱりトレーナーさんは変な人です。まぁ、読みますけど」
「えぇ……」

 と、言われるのも無理はない。その作品は、いわゆる尻尾ハグの描写に定評があるからである。ラブコメというやつだ。(トレーナー×ウマ娘)の恋愛物語はいつの時代も需要に満ちている。
 マーチャンも青い女の子。未来に春が控えている。感想をぽつりぽつりと呟いていたけれど、いつしか無言になった。コーヒーマシンのトリップ音だけが部屋を満たす。俺はミルクを足して彼女に一杯を差し入れた。
 ありがとうございます。マーチャンは授業終わりに本を読んで、コーヒーを飲んで、帰る。俺はweb漫画を更新したり、事務をこなしたりしてから見送る。
 2人して、そんな幼馴染の休日みたいな放課後を繰り返すようになった。まぁ、窓が隣合わせで、ベニヤ板を使って部屋を行き来するようなことはないけれど。俺は彼女を寮へ送り届ける時間が好きだった。板で繋がれた数メートルをコンクリートタイル数100メートルまで延長する価値があった。
 4日に1度。読み終えたら次の巻。読むペースが全くもって落ちなかったから、面白かったのだと思う。2週間後には最新刊に追いついた。
 特に焦ってはいない。マーチャンには安らぎが必要だ。俺はそう考えていた。その頃には病状改善への道筋も立てていた。彼女の意思を尊重する。最後のページに栞の紐を挟んだ彼女が言った。

「少し出かけたいのです」
「いいよ。どこに?」
「それは〜……。1巻の第4章を参照です」

 タイトルは向き合う2人。確か、商店街へ行っていたはずだ。まだ付き合ってない2人がクリスマスプレゼントを選ぶ回だ。って、そうか。

「もうそんな時期か」
「そうです。もうそんな時期なんです」
「忘れてたわけじゃないけど、なんかね」
「はい。3年間、レースに囚われ過ぎてました。走ることばっかりで、まるでイベントを楽しんでいませんでした。ということで、失った時を取り戻すのです」
「うん。いいね。行こう」

 門限は19時。3時間ほど猶予がある。ギャラリーに囲まれることを加味しても、選ぶ時間は十分に確保できるだろう。俺はマーチャンにコートを羽織らせて、車椅子の手押しハンドルを握りしめた。

「では、れっつごーなのです」

 振り向いて、意気込んだ。その横顔に一塗りの紅を刺す。

 

 雪の色をしたホールケーキに、8つの赤い蕾が浮いている。たっぷりと乗せられた生クリーム。ガラスケースの向こうから、こちらをじっと見つめている。
 個人商店の強みだ。予約する客も居れば、買い付ける親子もいる。地域の者は、毎年その店でクリスマスケーキを購入しているのだろうか? 俺はそんなことを考えた。
 ジングルベルに出迎えられながら、アーケード街を道なりに進む。行き交う者は皆、例外なく笑顔に包まれていた。ここもまた、然り。

「新鮮な空気、むふふ」
「久しぶりだなー」

 学園の外に出るのは、敗北を喫したあの日以降のことだった。メディア露出でもある。俺達は囲いにファンサービス、突撃取材まで覚悟していた。でも──。

「なぜでしょう、全くもって声をかけられないのは。『大怪我のアストンマーチャン、その今に迫る』なんて、良いネタになると思うのですが」
「ほんと、なんでだろう。まぁ、ゆっくり選べて良いじゃん。今日くらいはさ」

 道すがらファンの方々から心配を貰うことはチラホラあった。それでも、想定よりはずっと少ない。
 
「複雑です。やっぱり有馬記念ですよね、勝てません。……マーチャンは賞味期限が近いのでしょうか? いつか忘れ去られてしまうのでしょうか?」
「そんなことないよ……。そのためにマイル路線で頑張ってきたんだろ?」

 途端に、マーチャンが両手で頭を抑え込んだ。

「痛ッ……」
「……! 大丈夫か?!」
「……少し。気になる程でもないかなと」
「明日医者に診てもらおう。無理はダメだよ」
「はい。何かあればすぐに言いますから」
「うん。それで、何買いに来たんだっけ?」
「えーっと──」

 むむむ、と逡巡。
 首を傾げて、溢した。

「あれ? なんでしたっけ? あれほど買いたいものがあったのに忘れてしまいました。なんだか変な感じです」

 初めて症状の顕れた瞬間だった。

「いや……なんでそんなに冷静なんだよ」
「なんででしょう。なんと言うか、ふわふわします」
「ふわふわ?」
「……でもさっき、ふと思ったんですよね。“忘れられたこと”すら記憶できなければ、私も楽なのかなって。いや冗談ですけど」

 身も蓋もない。その声が微かに揺れている。俺は暫く補えないままでいた。ぼんやりとした肯定ばかりが降り積もる。

「そんなこと……言うなよ。できるはずだって」
「むむ。悲しませてしまいましたか?」
「まぁ……。力不足を痛感するよ」
「そんなことは無いのです。トレーナーさんは出来る人です、まぁ変な人でもありますけど。そうですね、最近は毎日が『楽しい』ですし。新たなストレスも感じてません。助かってます」

 少し黙って、彼女は続けた。

「むしろ力不足は私の方です。私自身がストレスの原因が特定できてないのですから。それが分かれば、話は早いのに」
「そんなことは──」
「『──ないよ』ですか? そうです。そうやってフォローする気持ち、よく理解できます。ですから自己嫌悪は無しにしましょう。互いにベストを尽くしています。あくまでも“感覚的に”ですけど治っている気もしています」

 振り返って、笑いながら、紡ぐ。

「気を落とさないで下さい。買いたいものを忘れてしまったのなら、今からそれを決めましょう。それで良いのです。時間はあります」
「ありがとう」
「いいえ」

 グリップを握る両手から力がスルリと抜けていく。進むペースが少しだけ緩まったように思う。
 それからは商店街を往復して、デートってやつをした。ケーキを買って帰ろうか。マーチャンがプレゼントを決めたのは、18時半のことだった。
 ウールの白手袋だ。手の甲に黒いハート。2人でくっつけて完成する。買ったのは、その1つだけ。

「欲しいものと贈りたい物は沢山ありましたけど、両立できる案を思いつきました。マーチャンは天才なので」

 右手は彼女、左手は俺。片手ずつ分けあった。わざとらしく背もたれに寄りかかった彼女が切り出した。

「小説だと、この後はどうなるか知ってますよね」
「告白してたっけ」
「そうです。マーチャンも真似して良いですか?」
「ダメって言っても言うじゃん」
「よくわかってますね。でも、この“好き”は違います。私たちはトレーナーと担当の関係ですから」
「うん」
「恋人には、なれません。多くも望みません。だからせめて、契約の更新くらいは願っても良いと思うのです。私のトレーナーであり続けてください。来年も、その先も」
「当たり前だろ」
「ありがとうございます」

 彼女が「そして」と続けた。

「証明して下さい。肌身離さず持っていますから。もしもマーチャンが全てを忘れ去って、トレーナーさんのことすらも分からなくなってしまったら。その手袋で私の右手を握って下さい。多分、思い出せるはずです」
「忘れさせるもんか」

 俺は手袋に指を通す。余った右手で彼女の左手を包み込む。手のひらの熱が肌の隙間を貼り合わせた。柔らかくて小さい。それでいて、臆病。

「怖いです」
「いや、治す」
「意地っ張り」
「だろうな」

 少しだけ、うわずった。諦めるなよ。ギュッと握りしめる。ピシリと研ぎ澄まされた空気の中で、そこだけが静かな熱を持っていた。

 

 

2.【追憶】

 12月27日。約1ヶ月間で進展したことは2つ。
 1つは脚の怪我が完治に向かっていること。松葉杖を使えば、マーチャンも自らの意思で移動できるようになった。
 もう1つは、記憶消失の原因を推定できたことだ。どうやらマーチャンは、他人の記憶から振り落とされることを、以前よりも極端に恐れているようなのだ。シニア期だから焦っていたのだろうか?
 先日の自白に結論が詰まっていた。忘れられたこと自体を忘れようとしている。ならば、このマスコットを宣伝しなければ。それが特効薬になる筈。そう考えられる。それは長期記憶の確認及びリハビリも兼ねている。
 インパクトを与えよう、なるべく多くの人に。まずはクラスメイトからだ。期末テストで総合得点1位を獲る。それが俺なりに捻り出した答えだった。

「できそう?」
「……頑張りますけども」
「つらいか」
「いえ。プリティーマーチャンは、同時にジーニアスでなければならないので。やりましょうとも」

 有馬記念を終えれば学年末のテストがやってくる。マーチャンが読んでいた小説は、教科書に代わられる。
 手応えは良好。そもそも彼女は自習に励む学生だから。それは授業中であろうと、惰眠にふけることもない。指導に苦労しなかった。それでも、成績は上の中くらい。

「どう頑張っても、ケアレスミスが減りませんでした」
「君らしいな」
 
 あとは詰めるだけ。今ならば平均して90点以上を望めるだろう。仕上がっている。ゆとりもある。
 あったからこそ、彼女はTVをつけてソファに身を投げた。

「息抜きは大切です」
「ほらダラけないー」
「仕方ないことなのです」
「はいはい」
「ということで有馬記念の放送を観ましょう、一緒に」
「良いけど、終わったらすぐ再開するぞ」
「もちろんなのです」

 1番人気はウオッカ。その2つ下にダイワスカーレットが並んでいる。いずれもマイルでしのぎを削ったライバル達。
 その後マーチャンは短距離へ、2人は長距離へ。

「気になるか」
「はい」
「勝つなら、どっちが先にゴールラインを割ると思う?」
「……難しいです。強いて言うならウオッカですかね。まぁ、勝つのはN番人気のアストンマーチャンなんですけど。どやや」
「ん?」
「いやはや。あまりにもボケが雑でした」
「いつか出たいってこと?」
「よくわかりましたね。凄いです。変な者同士、気が合いますね。さすが」
「どーも」
「やっぱり短距離マイル路線よりも、中・長距離路線の方が世間的な評価は高いです。見栄えますし。その中の最高峰ですよ。最高峰。有馬記念で勝てたら、トレーナーさんはもっと褒めてくれますよね?」
「当然。でも、厳しいだろうね」
「……はて?」
「脚質、適正距離ってのは産まれ持った才能だから」
「やってみなければ分からないのです」
「それはそうだけど、それなら勝つ可能性のあるレースを獲っていく方が堅いかな」
「弱気ですね」
「違うよ。G1であれば1着に価値が出るし、知名度も上がる。確実に積み重ねよう。“忘れられないウマ娘”になるなら、そっちの方が賢明だと思うんだ」
「そうですけど──」

 彼女は続きを振り払って、ソファに顔を突っ伏した。TVには目もくれず。
 違和感を覚えたのは、それから直ぐのことだった。ゴリゴリと骨を削るような音が、レースの実況を濁らせたのだ。終盤に進むにつれて、違和感が大きくなった。
 その正体は、すぐに分かった。それはマーチャンの王冠が、頭皮に擦り付けられている音だった。

「どうした?」
「痛いです……頭が……。割れそうで……す……ッぅァ!」

 俺が王冠を跳ね除けると、彼女は両手で頭を掻きむしる。爪先に詰まった白い塊は、前頭部の皮膚だった。

「え、は、え?」
「はやく」
「あ────」

 俺はスマホを起動する。画面を上に向けてスライドしてロックを解く。電話のアイコンを人差し指でタップする。瞳に涙を溜めながら、彼女は振り絞った。

「助けて下さい助けて下さい。嫌です。忘れたくないです。置いていかれたくないです。なんで、なんで」

 過去に1度も聞いたことがないくらい怯えた声だった。119。番号を押す人差し指も、震えていた。
 1着に輝いたのは緋色の女王。それはソファに染みついた斑点と同じ色をしていた。

 

 マーチャンの母親にされた説明は俺達の1ヶ月を無に還す。

「病期の進行が止まってません。本当にマズイですね。検査のため2、3日ほど入院ましょうか」
「嘘だろ……」
「と言いますか、急速に進んだみたいです。その急激な脳血管の圧迫が、頭痛を引き起こしたみたいでして。しかし悪いことばかりでもないです。予測されていた喪失日が3ヶ月と変わっていないあたり、それまでの対策は効果があったようですね」
「そう、そうですか……。ならなんで……」
「確か『忘れられることを極度に怖がっている』んでしたよね? で、それがストレスの原因になってると」
「はい」

 彼女は「恐らく」と付け加えた。

「娘にとって半分は正解で、半分は不正解なのでしょう。そして今日、トレーナーさんは地雷を踏み抜いてしまった。完答の鍵となる“何か”に触れた。そんなところでしょうか。予想の域を出ませんけれどもね」
「それはつまり、あと2ヶ月も放置すれば治らないと」
「そうなりますね。まぁ、医療的なタイムリミットは目安にしかなりませんが。私は仕事で手一杯なので、治療の方は本当に……頼みますよ。一応、私なりに専門家たちの意見を集めたので、効く薬なら出せると思いますから」
 
 呑気に構えているつもりはなかった。素人の判断ながらも100点中の50点を出せたのだ。十分であろう。もっとも、及第点には届いてないが。

「海外にも視野を広げた方が良いのでしょうか?」
「……きっとセカンドオピニオンでも、同じような答えでしょう。望むのであれば紹介状を書きますが、正直なところ、薦められません」
「一体どうしろと……」
「今は継続しかありません。期限を遅延させましょう。効果は顕れていますから、堅実に頑張りましょう」
「ありがとうございます」
「それと、これからは定期的に通院してください」
「わかりました」

 マーチャンは待合室にいた。以前のように頭を包帯を巻いて、ソファに座っている。唇をキュッと一文字に結んだのは、入院の旨を聞いたからだった。

「お母さんは何と言っていましたか? トレーナーさんとは、もう会えないんですか?」
「そんなことないよ。2、3日で退院できるらしいし。毎日様子見に来るからさ」
「……絶対に、約束ですよ? 破ったら……どうしましょう。そうですね、LOVEだっちの新刊は私から読ませて貰いますからね」
「あぁ、約束だ」

 指切りげんまん嘘ついたら──針は飲ませんけどマーチャンのお願いは聞いて下さいね。ミミを弱らせて溢していた。


      †


 それから2日間は変化なし。仕事を早めに切り上げて病院へ向かう。理由は、まぁ普段よりもトレーナー室が寒かったから。
 自動販売機の缶コーヒーで手を暖める。病院の手前でカフェラテを買って、マーチャンに渡す。あの部屋で淹れる1杯よりかは劣るけれども。

「俺のやつを飲みたいって?」
「はい。きっとぬるくなっているでしょうから。暖かいのを飲めば、帰りもポカポカなのです」
「ほとんど飲み終わってるし、ブラックだよ」
「それで良いのです」

 なんの変哲も無かった。油断していた。どうせ問題なく退院して、直ぐにでも対策を練るのだろうと俺は思っていた。3日目までは。
 ノックをしてから入室する。マーチャンは壁を背にして、ベッドに座っていた。頬に人差し指を刺して尋ねる。

「あの、この手袋のことなんですが、左手の行方って、知ってますか?」

 信じたく、無かったさ。

「おーい、おーい? ふむ……」
「本当に何も覚えてないのか?」

 迷った。答え合わせをすれば彼女は壊れかねないだろうと思った。俺は鞄に伸ばした左手を引っ込める。
 ──証明して下さい。肌身離さず持っていますから。
 あぁ。
 思い出さずに居られたらどれほど幸せだったことだろう。

「なんで……トレーナーさんが持っているんですか……?」
「これでも、思い出せない?」

 俺は左手に着けて、クリスマスの日にした約束を遂行する。あの日に繋いだ右手よりも、ずっと小さい気がした。
 失くした理由なんて、彼女ならば幾らでも想像できたことだろう。『トレーナー室に忘れてた』とか『落とし物で届いた』とか。その過程をスキップしてまで声を震わせたのは、理解したからに違いなかった。

「もう……私、また、なにかを」
「いや、良いんだ」

 彼女は閉じ込めるようにグッと、喉仏に蓋を落とした。ごめんなさい。その声が、引っかかる。

「神様は理不尽なのですね。本当に、もう、何故でしょうか、感情だけは残っているんです。そう、絶対に忘れてはいけないこと。それだけは分かる、分かるのに……」
「忘れてしまったんだね」
「──ッ」

 包帯を涙で滲ませるには、十分なセリフだった。
 残酷だ。大人げない。伝えない選択肢もあった。それでも選ばなかったのは、俺が希望を求めたからだった。思い出してくれるかも、って。夢に散る。

「これはね、最後の砦だったんだよ。君が俺のことすらも忘れてしまった時の。まだ、俺の名前は覚えてる?」
「忘れるわけがないですよ──」

 違かった、口にされた名前は。限界だった。まばたきをしたら頬を伝いそうだった。ダメだ。耐えろ。

「うん。そう、合ってる」

 我ながら随分と脆い嘘だなと思った。そういう心の揺らぎって、勝手に伝播するんだ。してしまうんだ。

「ぃっ、あっ、そッ、そう──ですよね」

 笑顔で涙を溢していた。俺も、目尻に熱い膨らみを感じていた。人差し指の綿繊維をジワリと灰色に濡らすのだ。


 
 退院できるワケがなかった。入院にアイドル活動の停止。それらは全て、無期限となって跳ね返った。変わらないことは1つ。マーチャンの命日──記憶が消えるまでの猶予だけだ。

「頑張ろうな」
「はい」

 治療に専念する。存在感をアピールする。俺はweb漫画の制作やマーチャン人形の普及に力を入れる。1日1本投稿。CMの依頼。限りを尽くす。
 結果から言えば、空っきしだった。アクセス数は伸びないどころか減少した。オファーは、そもそも通らなかった。
 テストも悲惨の一言に尽きる。オンラインで配慮されたものの。順位なんて、張り出された表を見るまでもない。染み込ませた知識は、髪の毛のように抜け落ちていた。テストでも1番なんだから。スカーレットが逃げ切った。

「わたし、ダメダメですね」
「マーチャンのせいじゃない。仕方ないことなんだよ……本当に……」

 人が笑顔を失う場面は多々ある。俺達の場合は日常に合致した。笑うことが著しく減った。というか、消失した。余裕が無かったと言えば、それまでだが。

「なぁ、これ、読む?」

 俺は薄いフィルムに覆われたままのLOVEだっちを手渡した。新刊だ。
 剥がされることなく、返された。

「それなら初めから読みたいです」
「そっか。ごめんね」

 1巻と交換する。彼女は疑うこともなく黙々と読み進めた。
 2巻の出番はない。病室を尋ねると初めの見開きを開くのだ。第1章〈すれ違う2人〉。しおりの赤い紐がボロボロに解れていた。
 遂にその時はやってくる。俺は、多分もう止まらないと思っていたし、腹も括っていた。
 断じて諦めたワケではない。でも、なんと言うか。日々会話に疑問符が増える現実を、俺は直視できなかった。薬でリミットを遅らせていれば、ある日フッと治るかな、なんて考えていた。甘かった。
 
「あの、どちら様でしょうか?」

 怪我の完治と共に“アストンマーチャン”は死亡した。食欲、睡眠欲、排泄欲。まるで機械のように、3代欲求を繰り返すようになった。

「君のトレーナーだったヒトだよ」

 何度伝えたことか。いつからか数えることもやめた。口数も減った。そっか他人だもんな。マーチャンは窓の外をボーッと眺めるだけになった。

「申し訳ありません、お母様……。本当に、本当に」
「いえ、最善を尽くしてくれたと思っています。私よりもトレーナーさんの方が、娘の3年間については詳しいと思うので。きっと私が治療にあたっても、手の付けようがありませんでしたから。母親として情けないですが」
「……いえ」

 カルテのクリップを何度もぱちんと弾きながら、彼女はそう言った。
 ──あなたをトレーナーとして付けなければ良かった。
 そう言わないのは、せめてもの温情なのだろうか。俺が焦らなかったから。甘えていたから。俺は……無力だ。

「ごめんな、マーチャン──」

 黙りこくる彼女は、マスコットよりも静かだった。バキバキに壊れたレンズで遠く空の果てを見つめている。空一面を埋め尽くす雲は、埃のような灰色を帯びていた。
 想定された期限よりもずっと早く、マーチャンは記憶を失った。
 そして、脳を再起動するための眠りについた。深く、深く。それはまるで白雪姫のように、白馬の王子からキスを求めているかのように。

 

3.【New Deal】

 窓を通り抜けた陽の光に当てられて、俺は覚醒する。ベッドにもたれていた上半身をゆっくりと持ち上げる。かけた覚えのない毛布が、リノリウムの床にハラリ、落ちる。随分と長い夢を見ていたように思う。
 サラサラと、白いリースのカーテンが棚上のアネモネを撫でている。ガラスコップの花瓶を通り抜けた光のモヤが、白く透き通って木目を泳ぐ。赤の花びらと白地のコントラスト。ヒラヒラと舞い落ちるさまは絵画のようだった。病室を吹き抜ける風が、耳元でゆったりと春を告げる。
 俺は1つくしゃみをした。それは室温のせいなのか、花が発する微粉のせいなのか。ずるずると鼻をすするばかりでは、とんと判断がつかない。

「おい、ここで間違いないのか? 何号室だ?」

 窓の下からマスコミの声が聞こえる。そのはずだ。本来ならば、怪我の完治とともに俺の担当バは復帰していたはずだったから。良いネタになる。

「────ッん──」

 寝返りを打ったのはマーチャンだ。覗き込むと、彼女はパチリと目を開いた。寝たきりで凝り固まった筋肉は身体をベッドに縛りつける。首だけは僅かに動くらしい。彼女は白い壁で囲まれた空間をキョロキョロと見回した。インクが切れかけたボールペンのような声で俺に訊く。

「あなたはか──?」

 必要な情報は断片的に与える。俺がトレーナーであること。君は記憶を失っていること。担当医が母親であること。混乱しないよう順々に。
 彼女は釈然としない表情のままカレンダーに目を配った。
 1月15日。想定されたタイムリミットの日に一致していた。本人は知る由もないことだ。押し寄せる情報の荒波を理解しようと必死、といったところか。ナースコールに呼び出された母親が言う。

「さて、どうなりますかね……」
「本当に……吉と出るか凶と出るか」

 俺は医療ベッド用テーブルの上に例の小説を置いた。一巻だけ。しおりを外してから手渡す。

「これを読んでみて欲しいんだ」
「……? はい」

 脳のパッチテストをする。本の内容を数時間後に再確認する。結果次第で病名が正確になる。

 解離性健忘──1度記憶を喪失すると、それ以降も数時間ごとにリセットされる。詰み。
 解離性遁走──赤子のような状態。過去は覚えていないが、新たな記憶を保持できる。

 マーチャンが内容を忘れていれば前者、覚えていれば後者にあたる。
 第1章を読むのに1時間もかからない。昼を少し過ぎたくらいに検証は始まった。怖かったから、質問役は委ねた。

「主人公とヒロインの2人は何をしていたか覚えている? 話の構成をザックリとで構わないから教えてちょうだい」
「えぇと。確か、幼馴染の2人が学祭の借り物競争で恋人のフリをするところから物語が始まりました。でもヒロインの娘にはフィアンセがいて、主人公は表立っての交際ができない。結果、スパイのようにコソコソと付き合うことを決めたところでその章は終わりました。そうですね、そのすれ違いが特に面白かったです」
「そう! あぁ、良かった……」

 完璧に一致した。解離性遁走であることが確定。病室に張り詰めていた空気がフッとゆるまった。

「とはいえ混乱しているわよね。詳しいことはまた後日。とりあえず簡潔に、これからの方向性について説明しようかしら」
「ふむ?」
「マーチャン。自分の将来を決められる?」
「……少し待ってくださいよ。あまりにも急過ぎます。追いつけませんし、よく分かりません。どういうことでしょう」
「難しい?」
「いや……というかそもそも、私は何者なんですか? 何のために産まれてきたんですか?」
「そう自暴自棄にならないで。落ち着いて。今は辛いかもしれないけど、それも含めて説明するから」

 2人とも大きく深呼吸をして続けた。最も辛いのは、母親である彼女のはずなのに。

「基本的に遁走型となると、分けられる未来は2つだけ」
「……はい」
「『過去の自分を取り戻す』か『新たな人生を歩むか』のね。まぁ、圧倒的に後者が多いのだけれど」
「思い出せるんですか?」

 お母さまはカルテをめくって、報告書らしき書類に目を通した。ザッと目を通してから返した。

「望みはあるけれど、可能性は希薄……。過去にも、片手で数える程度の例しかないのよ。まぁ無いよりはマシね」
「そうですか……」

 やはり本人のキャパシティなど、とうに超えているようだった。

「あの、やっぱり分からないです。そんな急に判断しろと言われても出来そうににありません。ごめんなさい」
「そうよね、ごめんなさい。無論、今すぐに答えを出す必要はなくて。私としても焦ってはいないから、よく考えて決断して欲しいの」
「……はい」

 その後に薬の説明をされたけれど、内容はよく覚えていない。残っていたのは葛藤だけ。尊重されるべき選択は彼女の意思である一方で、俺の意思もまた、鬩ぐ。
 俺とマーチャンの2人だけになった空間で、彼女は恐る恐る尋ねた。

「あの……お名前を伺っても宜しいでしょうか? なんとお呼びすれば良いのか……」
「あぁいや『トレーナー』で良いよ」

 彼女の両ミミが上下にピクリと揺れる。トレーナー。その言葉に反応していることは明らかだった。彼女は、まだ整わない声で謝った。

「ごめんなさい。トレーナーさんだったのですね。私、本当に何も覚えていなくて」
「うん、分かってる。大丈夫」

 あぁ、その声がまったく別人のものであって、聞くたびに“アストンマーチャン”を思い出さずにいられたのなら。

「あの、悲しませてしまいましたか?」
「いいや」
「そうですか。でも、そうには到底見えません」
「大丈夫」
「私のトレーナーさんは意固地なのですね。そして同時に、過去の私のことが大好きで仕方なかった。きっと、そうだったのでしょう」

 ふと顔を上げると意地悪に笑う彼女がいた。核心をつく。

「あなたとしては過去の私に戻って欲しい。新たな人生を歩まずに、思い出して欲しい。顔にそう書いてあります」
「……ほんと、敵わないや」
「いいんです。私が逆の立場だったら同じことを考える筈ですから」
「うん」
「しかしそうやって戻るかも、ましてや何年かかるかも分からないような可能性に時間を費やすのは勿体無い。そう考える私だって居ます」
「だよな。そりゃそうだ」

 彼女は「ですから」と繋いだ。

「一緒にスパイごっこをしましょう。そう、第1章のように。判断するのは、そうしてからでも遅くなさそうなので」
「……?」
「いやはや。あまりにもボケが雑でした。まぁつまり、過去の自分を知ってから判断しようということです」

 ボケが雑でした。その言い回しは2回目だなと思った。

「──覚えてるの?」
「何をでしょう?」
「いや、なんでもない」
「……はて。トレーナーさんは変な人ですね」
「その通り。覚えてるじゃん」
「……よく分かりません」
「ハッ。なんでもないよ。ごめんね」

 彼女の意思は尊重する。尊重するけれど、やはり望まずには居られないのさ。そうやってチラつかれると、尚のこと。

 

      ‪✝︎

 

 スパイごっこ。それは正体を隠す点において同様の意味を持っていた。
 マーチャンは大袈裟過ぎないサングラスとマスクも着ける。目立つけれど、車椅子は仕方ない。昏睡で筋力が落ちていたから。2人で揃えれば流石に怪しいので、俺はマスクだけ。

「さぁ、行きましょう。バレないように潜伏しながら進むのです」
「はいはい」

 ミッション①──記者に見つかるな。正面玄関には数人。裏口を使うことにした。成功。
 ミッション②──街に溶け込め。功績は嘘をつかなかった。「ねぇアストンマーチャンじゃない?」。失敗。

「まぁでも、メディアにバレなきゃセーフ。取材されたって答えられないし」
「はい、誤差です。②はサブターゲットです」

 メインタスクはクリア。目的地──トレセン学園に到着。マーチャンが己を知るならば、これほど適した場所はない。
 トレセンの地を踏んで、彼女は真っ先に「懐かしい気がする」と言った。身体に、心に、深く染みているとのことだ。

「教室の位置は?」
「……いえ」
「まぁ、そうだよな」

 夕焼け色を貼り付けた廊下に、窓サッシの黒い影が浮かんでいる。線路のように連なったその影に、俺は車椅子の車輪をひっかけた。太陽の傾きで1本に収束するレール。薄暗いその先に繋がっている。

「あれ?! マーチャンじゃんか、何でいるんだよ?! 元気か?!!」

 教室の闇から漏れ出したのは光だった。夕焼けに焦がされた教室の中で、窓際に座っていたのはウオッカだ。眩しくて、暖かい。友達とはそのような存在であって欲しいものである。俺は素直にそう思った。

「初めまして──では無さそうですね。こんばんは」
「おぉ……。やっぱ聞いた通りなのか……。記憶が無くなってるってのは。俺のこと覚えてないのか?」

 手持ちのスキットルを見せても、マーチャンは首を傾げるばかりだった。

テキーラさん?」
「うぉ……。マジか。ウオッカな。まぁ、よろしく頼むぜ」
「ふむ。惜しい。宜しくお願いします」
「その……ウオッカ……隠してごめんな」
「あー、良いって良いって。あれだろ? なんか考えてたんだろ、お前らのことだし」
「うん。無かったことにしようと思ったけど、ダメだった」
「おう。難しいことはわからねぇけど助けようとしてたんだろ?」
「あぁ」
「お前いい奴だなー」

 そう言ってくれるだけで、多少ながら救われる。ウオッカの舌は止まらない。

「ところで今何してんだ?」
「なんだろう。どこから説明すれば良いのやら。ざっくり言うと『スパイごっこ』」
「はぁ?」
「トレーナーさん、それじゃあ分かりませんよ……」
「あぁ……。いやなんというか『マーチャンが自分を知る』キャンペーン中とでも言えば良いのかな?」
「ほー。昔の自分を思い出してんのか。てことは記憶が戻る可能性があるってことか?」
「さぁね。担当医には殆ど可能性ないって言われたし、そもそもまだ“選んで”ないし」
「それでも、僅かな可能性に賭けてるのスゲェ熱いな。良いトレーナーを持ったなマーチャン。大切にしろよ」

 それはまるで──。

「逆にウオッカは何を?」
「まぁ、そうなるよな〜……そうだな」

 窓の外に顔を向けて、ぽつりぽつりと溢し始めた。

「ほら、アレ見ろよ」

 陽の沈みかけたターフに、人影が1つ。誰かなんて直ぐに分かった。

「スカーレットか」
「おう。ずっと走ってんだよアイツ。スゲーよな、マジで」
「追いかけないのか?」
「ハハッ。知ってると思うけど俺さ、有馬記念でアイツに負けちまってさ──」
「うん」
「アイツは何でもかんでも1番イチバン。そうやって越されてる内に、トレーナーから契約満了を言い渡されちまって」
「それは──いや……。でも立派だったよ。良い勝負だった」
「サンキュー。でも6着にそれはねーな。情けねぇけどよ」
「そんなことは……」
「いや、良いんだ。限界も感じてたし、これで負けたら終わろうって決めてたんだ。心のどっかではな。でも、なんつーか。いざ終わってみると、こう、辛ェな。相棒がいねえってのは」

 切り返したのはマーチャンだった。

「それで1人、感傷に浸っていた、と」
「バッ──、おまえ、言うなよ!」
「おいマーチャン──」

 俺の静止を振り切った。

ウオッカさんのその想いは、スキットルの錆になってしまったのですか?」

 ウオッカは両目をハッと見開いて、床に目を伏せた。行き場を失った視線は建材の木目へと分散する。

「……名残りかなんだか知らねーけど……お前って昔から詩人みてーなこと言うよな。俺、そういうのよく分からねーし、込められた意味だってわからねーけど──。なんで、こんな時だけ分かっちまうんだろうな」

 ガラスに写るオオカミ少女は、今にも割れてしまいそうな顔をしていた。銀色のアルミ容器に涙がポタリ、垂れる。夕暮れの朧雲は夜へ向かうように、一筋に伸びていた。
 
「やり直せないのですか?」

 苦しそうなウオッカの言葉を、俺が繋ぐ。

「あのな、シニア期までに一定の結果を残せなかったウマ娘は契約の満了として別れを告げられるんだ。スカーレットみたいな娘の方が少数派なんだよ。トレーナー業も遊びじゃない。俺たちも生きていくためには活躍させるしかない。伸びしろがある分、こちらとしてもジュニア期の娘を選ばざるを得ないんだよ」
「そうだったのですね……ごめんなさい」
「いやぁ、謝んなよ。なんかスッキリしたからよ。むしろサンキューな! マーチャンもまた一緒に走ろうぜ!」

 ウオッカはそう言って、ニコリと歪む。両目の隈は夕焼け空のように赤かった。

「なるほどな」

 俺は1つ、マーチャンから教わった概念を思い出した。それは医者の娘として産まれたゆえの、業。

『病院は、命が流れていく場所です。産まれて、流れて、海へ行きます。これは当たり前のことで、怖いことではありません』

 この概念はトレセン学園においても流転の本質として活きている。ただ1点を除いて。
 ──怖いことではありません。
 そんなワケあるか。さながら呪いだ。その呪詛が、マーチャンの記憶障害に影響を及ぼしているのなら? そう考えてしまう。
 
「スカーレットにも挨拶しなくて良いかったのか?」
「はい。何を話せば良いのか、分からなかったので」
「そっか。だよな。俺も」
「はい」
「……」
「……」
「『余計なこと言っちゃった』って思ってる?」
「はい」
「なら謝っておきな。LINEは繋がってるだろうし。にしても、あんなにグイグイ攻めるマーチャン初めて見たな」
「なんというか、他人事のように思えなくて。そうですね、あとで謝罪のメールを入れておきましょうか」
「固いな。友達なんだし、そこまで畏まらなくても大丈夫だって」
「ふむふむ。実感がなくて難しいです。でも、却って興味が湧いてきました、そのお人形さんに」
「うん。良いね」

 この日、マーチャンは学園のリアルを知った。
  
 


         ‪✝︎

 


 さて、コーヒーを飲むにしてもホットにするかアイスにするか。2月を迎えれば迷うことも多くなる。淹れ終えてから結論を出す。マーチャンはアイスカフェラテを所望した。
 彼女も時が経つにつれて、この環境にも馴れてきているといった様子だ。僅かながら会話に笑顔が混じるようになった。トレーナー室に、春の風がスルリと吹き抜ける。

「どうぞ。アイスで良かったの?」
「はい。ありがとうございます」

 この時期になると、メディアの粘着が減った。お出かけの機会は増えた。
 リハビリの日々は、まだ続く。手すりを掴んで震える脚で前に進む。
 不幸中の幸いと言うべきなのか、昏睡していた期間は1ヶ月で済んだのだ。ぶかぶかだった制服のストッキングも、履ける程度には回復した。走れはしない。
 自ずと病院に拘束される時間が増えたから、遠出は不可能だ。学園に通うことならばできる。トレーナー室まで歩けば、それもリハビリになる。

「やっぱり自分の脚で歩くっていうのは最高ですね」
「うん。このままいけば直ぐに回復しそうだね」

 18時までには病室に戻りたい。考慮すればここに滞在できる時間は1時間程度。出来る事は限られる。効率よく記憶を再現せねばならない。
 マウスパッドを動かすと、PC画面がスリープモードから目を覚ます。俺はパスワードを通過してモニターにメニューを表示させた。アイスコーヒーを片手に持ちながらソファに腰を預ける。
 マーチャンはファイルフォルダをクリックする。液晶全体に広がる4コマ漫画。アイスカフェラテをひと口飲んで、カーソルバーを下にスクロールした。

「なんと。私がいっぱい」
「3年間の日記みたいなものさ」

 全部でおよそ900話。web漫画にしては、随筆めいた構成となっている。

「何だか、変な感覚です。知らない私が物語を作っている」
「だろうね。まぁ、これで色々と分かるんじゃない?」
「はい。楽しみでもあります」

 出会いから近況まで日常が記録されている。まさか、こんなところで役に立つとは思わなかった。全話に目を通す時間はないから、基本的には読み流す。
 初めてカーソルが止まったのは、2年目の夏合宿──夜の海でのワンシーンだった。

「うわわ。なんです? これ?」
「それはね、同じ舟に乗せてくれたなって、初めて実感できた時のやつ」
「舟?」

 液晶を人差し指でなぞりながら、彼女は吹き出しのセリフを復唱する。

「『今日の私、昨日の私、世界中には映しきれない私を、トレーナーさんのレンズに映してくださいね』ですか」
「うん」
「『ちゃんと覚えていてくれたかは、ずーっと未来のトレーナーさんに聞きたいのです』ですと?」
「なんか懐かしいな。その響き」
「むむむむむむ。なんと恥ずかしいことでしょうか……。これじゃあプロポーズしているようなものじゃないですか」
「ね。嬉しかったけどなぁ」
「ふむ……なるほど。以前の私は貴方のことが大好きだったらしいです。そんな気がします」
「そっか」
「心臓が変に熱いのに、それでいて苦しくない。なんというか、そんな感情だけはボンヤリと残っているのですよね」
「不思議だな」
「はい。お互いに、好きで好きで仕方なかったんですね」

 カチリ。丸時計の長針が5の上に重なった。そんなことを知る由もない秒針は、忙しなく時を進めている。

「どう? 昔の自分は」
「なんというか『不思議ちゃん』ですね。銅像建てたり人形を作ったり。とても楽しそうでした。ウオッカさんやスカーレットさんも居ましたし。漫画の中の私はいつも笑っています」
「そうだね」
「いえ、今が楽しくないとか、そんなことはないのですが」
「分かってる。そう。過去の君はね、マスコットになりたがっていたんだ」
「そのようで。まぁ今となってはお人形さんというより、木偶の坊ですけれど」
「冗談でもそういうこと言わない」
「おっと。以後、気をつけます」

 木偶の坊。画面をスクロールすればするほど、その言葉が胸に深く突き刺さる。次にカーソルが止まったのは、タイトル〈お知らせ〉だ。崩れた薄黒い氷がコップの底をカラリと叩く。
 ゆいいつ真っ黒な1コマ目。そこに無機質な4文字が浮かんでいる。今まで読み進めた者なら、誰だって足を止めるであろうサムネイルだった。

「これは──?」

 11/20。阪神競馬場。芝1600メートル。マーチャンがマイルチャンピオンシップで敗れた日の記録だ。苦い記憶。その4コマにキャラクターは存在しない。ぎっしりと、細かな活字が詰め込まれているのみ。

ダイワスカーレットさんに敗れて怪我……ですか。しかも活動休止というと──」
「そう。ここで頭を打ってから、君は段々と記憶を失っていったんだ」
「唐突に忘れたわけではないのですね……」
「うん。別に隠してたわけじゃないけどね」
「それは……あんまりです。トレーナーさんは何で、そんなに平気でいられるのですか。壊れていくさまを見て」

 平気なわけあるか! 出そうになった言葉を、俺は喉の奥に押し込んだ。

「そりゃ悲しいよ……俺だって。でも己の無力さに打ちひしがれてたって、君は帰ってこない。だろ?」
「そうですけど……」

 マーチャンはブラウザを閉じて、アイスカフェラテを一気に飲み干した。唾液を、ゴクリと嚥下してから口を開く。
 
「私、決めました」
「ん?」
「お人形さんになろうと思います」
「えっ。それって」
「はい。お母様に言われた『将来』についてです」
「良いの?」
「はい。私思ったんです、愛されてるなって。お母さん、ウオッカさん、スカーレットさんにトレーナーさん。きっと、まだまだ居るのでしょう。知らないだけで。特にトレーナーさんなんて、いくら悲しかろうとこうやって付きっきりでいてくれるのですから」
「……うん。みんな待ってるハズだよ」
「えぇ、そうです。そんな慈しみに満ちた人生をリセットするなんて、あまりにも勿体ない。記憶が戻るかは分かりませんが──いや、どんなに無謀でも、絶対に思い出してみせます」

 声を張らせて、言い切った。

「頑張りましょうね」
「おう……ごめん……ありがとう」

 コツン。拳を交わす。俺の手首が負けるくらい彼女の拳は固かった。
 意思の顕れなのだろう。かつての君に戻って欲しい。俺の勝手な希望が凝縮されている。
 この日初めて、マーチャンは大怪我の件を知った。自らが受けていた愛の大きさを知って、覚悟も決めた。病院へ持ち帰るには充分過ぎる成果だった。
 担当医曰く、それは母として喜ばしい判断であるという。その一方で、状況を難化させる要因でもあった。
 
「トレーナーさん、心して聞いてください」

 前置きを据えてから、マーチャンのお母さんは言った。

「娘は以前よりも繊細な容態でして。治療をするにあたって以前よりも慎重さを要求されるのですが、出来ますか?」
「詳しくお願いしたいです」
シナプス細胞が──なんて言ったところで仕方ないので分かりやすく言いますが。これ以上、娘にショックを与えないように立ち回ってほしくて」

 彼女曰く、今のマーチャンは砂の城のような状態だと言う。そういった説明を受けた。いっけん城に見えても、波が僅かに伸びるだけで、崩れ落ちる。マーチャンに過剰なストレスを与えれば、遁走が再発するかもしれない、と。

「荒療治は諸刃の剣なんです。仮にそのショックが回復の鍵だとしても、強過ぎるがあまりに……また吹っ飛ばしてしまう可能性だってあるんです」
「はい」
「本当に、本当に。ゆめゆめ気をつけてください。もう2度と娘から『あの、どなたですか』なんて──。そんな姿、見たくなかったんです」

 この人もまた、脆かった。いや──。

「俺のせいです、全部。本当に申し訳ありません」

 治せる人は貴方だけですから。本心か妥協か。あるいは、その両方か。

 

 


4.【向き合う2人】

 トレセン学園の生徒は2月の中旬から春休みを貰う。新学年に向けて整える期間だ。学業は一旦お休みして、レースに専念する。4月までに己の運命を決定する。
 シニア期を終えたウマ娘に与えられる選択肢は2つ。
 1つは大学進学。もう1つは現役続行。後者を選べば、等級を排除したフリーランスとしてレースを走れる。いわゆる企業のクラブチームみたいなモノだ。マルゼンスキーシンボリルドルフがその例にあたる。
 大抵のウマ娘は、ウオッカのように大学へ進学する。トレセン学園で走るほどの者である。地元のレース教室でコーチになるために、彼女らは資格を取る。実に合理的だ。
 マーチャンには特別措置が為された。理事長曰く、最終的に決めるのは4月以降でも良い。自由に過ごしてもらって構わないとのことだった。助かる。

 ──「思い出しましょう。新たな人生を始めるなんて勿体無いです」

 まぁ、軽い選択肢であろう。既に1度、人生の岐路に立たされた彼女にとっては。再契約の約束もしている。

「どうしましょうか」
「万策尽きてる感じはあるよね」

 やることは変わらないが、以前と違って猶予がある。「3か月」と宣告された時と比べれば、派手に動ける筈だった。ショックを与えない──その制約がなければ。
 トレーナー室と病院間の往復は継続する。俺が側にいる関係上、彼女は寮生活を送れない。 
 怪我自体が治っているからリハビリにはならない。もはや、カフェラテを飲みに来ていると言い換えても相違なかった。今日はホットを所望された。
 それでも油を売っているよりかは遥かにマシ。手持ち無沙汰な俺に、商い物を与えたのはマーチャンだ。

阪神競馬場へ行きましょう」
「どうした急に」

 商い物というよりは劇毒だった。それも飛びっきりの。これを売ってみろと? 無理がある。

「うーん。却下」
「なんと。せっかくの長期休みですし、レースにも出られませんし。──ね?」

 上目遣いに襲われる。しかし約束は約束だ。怪我をした場所に連れ出して、記憶を吹っ飛ばそうモノならば。
 そこはマイルチャンピオンシップの会場なのだ。ショックを与えるなと言われた手前、迂闊は出来ない。

「だーめ。東京競馬場は? 近いし」
「意味がないですよ。トレーナーさんだって、それくらいは分かっている筈です。それとも何か行けない理由でもあるのですか?」

 話を逸らさせるつもりは無いらしい。

「さぁね」
「むむ。ズルいですよ」

 ストレスを与えたくないとは言えど、本人が望んでいるのだから困る。

「聞きたい? 理由」
「はい」
「なんかね。過剰なストレスを与えるとマーチャンの記憶が消し飛びかねないんだってさ。俺自身、信じきれてない部分もあるけどね。行くのはダメだ」
「そんな……酷いです。仮に治ると言ったら、どうしますか?」
「その可能性もあるだろうけどリスクがデカ過ぎる」
「むむむむ。そうですか、そうですか。なら仕方ないですね」

 思えば彼女も、ブラウザを落としたあの日からweb漫画を読まなくなっていた。知る必要は無いです。そう一蹴して。
 多分、本能的に直感したのだと思う。ただ漠然とした過去でありながらも、同時に証拠となる答えを。あの競馬場にヒントがあるのだと。
 昼頃に病院へ顔を出すのが俺の日課だ。ある時お使いを頼まれて遅れた日があった。リュックサックを1つ。とびきり頑丈なやつでお願いします。
 1時間程度で買い終えたと思う。いつものように受け付けを通ろうとしたら、お母様に止められた。

「──え、居ない?」
「はい。叔父さんに会いに行くって。聞いてなかったんですか?」

 マーチャンの「仕方がない」は諦めを意味していなかった。トレーナーさんがその気なら「仕方がない」。
 強硬突破を意味していた。そういうことか。脱走しやがった、アイツ。

「あぁいえ、ここで落ち合う約束してたのに。気が変わったのかな。LINE見てなかったもので」
「今の娘にとっては初対面ですから、潤滑油になってあげて下さいね」
「あっ、は、はい」

 我ながら随分と滑らかな機転を効かせたモノである。咄嗟の返しとしては悪くなかった筈だ。
 ──って違うだろ。そこに油を差してどうしろと。売る油すら無駄に遣っては目も当てられない。
 俺はLINEを確認する。府中駅で待ってます。2番線ホーム。京王新宿線。02:39。通知を見て理解する。すぐさま病院を飛び出した。


 
 駅まで徒歩20分。猶予は10分。少し、走った。商店街を抜けて改札を抜けて──階段の方が早い。まだ間に合う。
 あのバカはすぐに見つかった。キャリーケースを横に添えて、待合室で座って待っていた。もう何本乗り過ごしたか分からないようだった。
 理性よりも先に本心が飛び出した。俺の口から飛び出したのは叱責だった。彼女を強引に引っ張り出して、俺は大人気ないことをした。
 
「何やってんだ!」

 ホームを発車した快速列車が叱る声を上書きする。誰1人として、振り返らなかった。まるでその数メートル四方だけが、この世から切り取られたみたいに。そんな真空世界だったから、コイツの声は嫌なくらいに通った。

「叔父さんのところへ行こうと思います」

 それは真実であって、またの名を嘘という。詭弁だ。阪神競馬場を目指しているなど自明の理。

「ダメだって言ったよな? 根拠も説明したよな?」
「覚悟の上です」
「そんなの、ただの自分勝手だろ。お母さんから頼まれてんだよ」
「弱気ですね」

 人々は改札へ降り去った。ガラリと静まったホームであろうと、俺は止まらなかった。
 
「死にたいのか? あぁそうだな。もういっぺん死んでみろ、俺ァもう知らねぇぞ?!」

 ヤバい。言ってから口を塞ぐ。大バカ野郎の肩がピクリ。しかし怯む様子はない。

「生きたいから、進むのです。あなたが望んだから……行くのです」

 マーチャンは明らかに泣いていた。それで許されると思うな。どうせ、大人に怒鳴られたから涙を流しているのだ。そんな己を衛るための涙なんて、俺は求めてない。
 彼女は溢れそうな雫を押し戻して、グッと歯を食いしばった。

 ──あれ? マーチャンじゃん。

 流石に人目を引いた。女子高生らしき声が聞こえる。どうやら切り離された空間が現実世界に繋がったらしかった。

「戻るぞ」
「嫌です」
「なんで拘る」
「そこに答えがあるからです」
「記憶もないクセに言い切んな」
「嫌です。そっちだって、可能性の話じゃないですか」
「あ?」
「確かに悪化するかもしれないですけど、治るかもしれないんですよ」
「0か100のクソゲーなんてやってられっか。2度言わせんな。俺だって親御さんから頼まれてんだよ、ショック与えんなって」

 マーチャンは黙ったまま言葉を探しているようだった。反撃の糸口は掴ませない。

「分かるか? 娘に『どなたですか?』って訊かれる母親の気持ちを。俺にかかってるプレッシャーを」
「分かっています。でもそうやって、トレーナーさんは何もしてないじゃないですか。学園へ行くだけ、病院へ通うだけ。web漫画で見たら、過去にも同じようなことばっかりして」

 マーチャンは少し躊躇って、それでもなお、発した。

「遊んでるようにしか見えませんよ、誰が見たって。本気でやってたんですか?」

 そのまま「なので」と続けた。

「私は行きます。あなたに止められようと。あなたの為に」

 ふざけんな、って思った。でも口には出せなかった。俺のマシンガンは、彼女の大砲に押し潰された。ペシャンコだ。重い、重い1撃だった。
 君のために手袋を買って、病院へ通って、リハビリにまで付き合ったのに。あぁ、ヤバい、泣きそう。

 ──まもなく通過する2番線の────。

 アナウンスが鳴った。マーチャンは振り返って、白線の内側にキャリーケースを寄せた。こちらを振り向きもせず。俺は反射的に、制服のコートを引っ張っていた。
 彼女は最後に振り返って、俺の船に鉛玉を打ち込んだ。

「今、私が飛び込んで死ぬのと“アストンマーチャン ”が死ぬの、どっちが良いですか?。選んでください」

 またスゥッと、俺の世界が遠く切り離された。人も音も離れて空気が透き通る。マーチャンは現実世界に残っていた。
 ガヤガヤと、向かい側のホームが賑わっている。定時で上がったであろうサラリーマンが、先頭で1人、席を心待ちにしていた。
 反対の列車が先に到着する。人々の温もりをかっさらって、ホームには冷たい風だけが残っていた。
 迫る二者択一。俺は身体が冷たいままの彼女なんて、嫌だと思った。
 茶色に錆びた線路がカタンカタンと、細やかな振動を刻んでいる。迫っているのは選択肢だけではない。運命の足音がする。
 やってくる列車の汽笛に乗せて、俺は自殺志願者を胸にぐいと引き寄せた。

「そういうことなので」

 彼女は意思を持つ、ハッキリとした強い目をしていた。

「分かった。俺の負けだから……。やめてくれ。冗談じゃない」

 駆け抜けた電車の烈風が、俺の前髪をびゅうと跳ね飛ばした。
 そこでやっと、彼女は「ごめんなさい」と謝った。
 全部……投げ出しても良いかな。もう疲れた。何のために頑張ってんだろ。
 飛び込む気はなかったです。そんな弁明に意味なんて無かった。後の祭り。襲われた感情に名前をつけようとしたら、俺が俺として壊れそうだった。己を責める涙は決して乾かないことを知る。
 その後は紙芝居を見ている気分だった。電車に乗ったかと思えば、飛行機のチケットまでお手のもの。トントン拍子とは正にコレ。
 神戸空港へ到着する頃。時刻は22時を回っていた。ずっと座っていたからか腰が痛む。頭を冷やすには十分な空き時間だった。
 俺はパターンを分析する。お母さまへの連絡は──野暮であろう。止められる筈だ。もっとも、本人に引き返す意思は無いらしいが。
 買ってこいと指示されたリュックは俺が使う。サイフとスマホを詰め込んだ。免許証さえあれば、まぁ、最低限は。
 そういうワケで俺達は、神戸市内をレンタカーで移動する。先ずは宿を探すことにした。
 叔父の一件は「明後日に会う予定です」とのこと。

「謎の空白の1日は──」
「ご明察。お母さまには大阪へ寄る旨を伝えておきました」
「その1日で阪神競馬場へ行くと」
「はい」
「はぁ……」

 排気ガスが更に汚れそうな音である。俺は溜め息を窓の外に吐き捨てた。ハンドルを握る両手から力が抜ける。
 当然ながら気は乗らない。約束を破るから。生きるか死ぬか。いずれにせよ、お母さまからの大目玉は避けられない。
 車を走らせている時は、マーチャンと色々な話をした。機内食が不味かったこととか「さっきはごめんなさい」とか。
 マーチャンが後ろ座席を選んだのも意味があった。そもそも目を合わせる必要がない。
 油断していたのだろう。ルームミラーに映る彼女は、ひどく萎んでいた。

「本当は、あんなこと思ってなかったです」
「本心ってのは、窮地な時ほど姿を露わにするモノなんだよ。ごめんね役立たずで。何もできなくて」
 
 嫌味を言ったつもりは無かったけれど、彼女は真に受けたらしく口を閉ざした。仲直りなんて、そんな悠長は許されない。許さない。しかし今さら止まれない。
 宿はすぐに見つかった。人目を避ける意味で俺が先に降りる。手続きを済ませて、そそくさと部屋に閉じ込める。風呂もスケジュール管理も……面倒くさい。
 それからは、なるべく会わないようにした。俺からアイツの部屋に行くことは無かったし、その逆も。アイツは何か言いげたったけれど、LINEは未読無視。朝にでも確認すれば良い。
 俺は電源を消してスマホを枕元に放り投げた。恐らく疲れていたのだマーチャンに。いつ頃に寝落ちたかは分からない。おやすみを言った記憶も無い。


    †


 きのこが生えそうな朝だった。青いアクリル板に防腐メッキしたような空模様。腐ることはなさそうだが耐水性は心配になる。
 俺達は9時頃に宿を出た。阪神競馬場に到着したのは10時半。開場は11時。時間が余っていたから、近くの100均で変装道具を少々。一般客に紛れて見学する。最後尾に並べた。
 幸い問題は無さそうだ。待機列で待とうと、誰1人として興味を示さない。せいぜいチラッと見る程度。世間の視線は桜花賞──ダイワスカーレットに注がれていた。
 平日にも関わらず人がズラリ。入場まで30分。喚起する看板を見かけるくらいには。
 マーチャンは視線をスマホに長々と落としたままだった。気まずいと言い換えれば、それまで。それが楽だった。
 我慢比べは俺の勝ち。赤い伊達メガネを何度もクイクイと直しながら、マーチャンは交渉を持ちかけた。

「あの……本当に……いや──。本当の本当に全てが終わったら……仲直りしてくれますか?」
「別に、喧嘩なんてしてないじゃん」
「そうですけど……。なんだか、遠いのです。トレーナーさんが。私が悪いことなんて分かっています。ですから──」

 相変わらず空を見つめたまま、俺は防いだ。

「もう、腹くくったよ」
「へ?」
「昨日、俺さ、ここにくるまでずっと考えてたんだ」

 ──遊んでいるようにしか見えませんよ。

「ですから、それは違います」
「分かってる。分かってるけどさ、結果はそれを語ってる。思ってなくても、それが事実なんだ」

 だから。

「俺も、応えたい。君が覚悟を決めたから」
「お母さんとの約束も──」
「うん、ね。そりゃ怖いよ。どんな結果に転ぼうと、バレたら即、契約解除だろうし」
「私は切るつもりなんてありません」
「いいや。世間は許さないし、何よりお母さまに向ける顔がない。もしかして、そんなことも想定してなかったの? それだけの責任を背負ってまで、ここに来たんだよね?」

 若気の至りとは言えど、達観の域にまで踏み込めたならば許されるのだろう。本当に、そこまで突き詰めたならばの話だが。
 人形の意思は、軽かった。俺が考えていたよりもずっと。彼女は俺の左手をつまんで打ち明けた。

「契約解除は嫌です。絶対に」

 俺は随分とワガママだなと思った。何度目か分からない溜め息が漏れそうになる。
 マーチャンは、その場でウロウロと狼狽しているようだった。
 現実は音に直した途端、スラリと牙を向くモノだ。逃れることは許されない。俺からも釘を刺す。

「今、後ろの人たちに顔晒したらウマッターで広がるかもね。『アストンマーチャン阪神競馬場にいる』って。口コミって凄いよ。よく分かってるよね? 病院でも噂になるだろうな」

 その意味を理解できないほど、彼女はバ鹿ではなかった。
 列半ば。両サイドの赤いコーンはバーで繋がれている。後ろに並ぶスパイ達は壁のよう。列を割れば2度と戻れないだろう。この場所にも、この立場にも
 ──今、私が飛び込んで死ぬのと“アストンマーチャン ”が死ぬの、どっちが良いですか?。選んでください。
 君がそう縛ったように、俺も状況で拘束する。
 俺が死ぬか“トレーナー”が死ぬか。どっちが良い? ほら、選べよ。
 間違っても「戻りたい」なんて甘えんな。

「えっと──」

 よく分からない顔だった。それは困惑か。あるいは、後悔。
 マーチャンは両目を深く閉じ込んで「はい」と答えた。
 俺も大人気ないことをする。
 ──忘れてしまったんたね。
 まだ辛うじて記憶が繋がっていた時の宣告とは違う、呆れにも似た怒りの矛を振るう。
 俺達は互いに踏み止まれたはずだ。しかしその選択を採らなかったのは、マーチャンが大人びた子供である一方で、俺は大人じみた子供だったから。
 意地ってヤツだ。否定されたから? いや、覚悟を決めたから。それは責任でもある。

「全部、終わらせれば良いじゃん」
「……はい」

 列が、動く。というよりも後ろから急かされた。どうやら進んでいたようだ。俺達の前に水たまりのようなポッカリとした穴が空いている。話し込んでいて気が付かなかった。
 つままれた左手を振り解いて、俺は空洞を埋める。少し遅れてやってきた彼女の表情は、まだ分からないままだった。
 阪神競馬場は俯瞰視点からパドックを見渡せることで有名だ。レースは開催されてないけれど、そちらへとチラホラ流れる人がいた。
 観覧は自由ということで俺達は資料館をスキップする。ホールを抜けてコース場へ急ぐ。階段を登りきれば、あの苦々しい記憶とご対面。
 さて、一か八か。目の前にターフが現れる。

「わぁ……ここが。“アストンマーチャン”の死んだ……」

 ザワザワと、芝のカーペットが揺らいでいる。ちりばめられた桜チップ。3月初旬の花びらは淡いピンク色に染まっている。出会いと期待を含む色だ。うなじに当たるそよ風が桜をひらりと舞い上げる。
 最後尾からターフにかけて階段を見下ろせば、最前列に3人の家族を発見できた。7つくらいであろう赤茶毛のウマ娘がフェンスに顔を押し当てている。「私もここで走るんだ」と。そんな幸せに満ちた雰囲気が、ここからでも読み取れた。

「怪我をした時とは、まるで違うな」
「私がですか?」
「いいや。会場の雰囲気が。あの日は冷たかったけど、今日は……あったかい」
「そうですか。それは良い兆候なのかもしれませんね」

 マーチャンは辺りをぐるりと展望する。目の前は最終直線。ダイワスカーレットと争って、夢が潰えた場所。その奥──第1コーナーは植木に隠されて見えない。問題ない。
 あの日のレースを、俺は観客席の下から観戦していた。トレーナーの優待だ。だからこそ飛び出せたワケだが。

「ちょうどこの下、覚えてる?」
「なんとなく」

 マーチャンは導かれるように、ふらふらと階段を降りていく。1歩、2歩。コンクリートの床にスニーカーをゆっくりと貼り合わせながら、視線を1点に集中させて。

「何か思い出したのか?!」

 声が届かない。歩みも止まらない。彼女はフェンスにがしゃりと手をかけて、じっとある地点を見つめている。
 彼女の意識を戻したのは先ほどの幼いウマ娘だった。

「あれ。えっ、うそ、えっ、え?」

 隣のお父さんらしき人が代弁した。

「もしかして、アストンマーチャンさんですか?」

 当の本人が答える前に、ちびっこがマーチャンの太ももに勢いよく抱きついた。「しーっ」と指を当てる前に。

「なんと?!」
「コラコラコラいきなり失礼だろう。ごめんなさい、うちの娘が」

 とりあえず俺が間に入る。

「お子さんですか? マーチャン大丈夫?」
「えっと……はい」
「あの、わたくしトレーナーを務めている者なのですが、どうかこのことは内密に……」
「えぇ。プライベートでしょうから」
「助かります」

 引き剥がされた娘は興奮冷めやらぬといった様子。最前列の数メートルを何度も往復して、飛び跳ねていた。
 話を聞けば、筋金入りのマーチャンファンなのだと言う。
 少女は首を傾けて、ミミ飾りを指差した。

「ねぇねぇマーチャン!これ、分かる?!」

 どうやらイヤリングらしかった。クリップに赤と金色のロイヤルクラウンが付られている。

「これは……私の勝負服の……」
「そう!! 私、あなたになりたいの!」

 その子のお母さんが嬉しそうに語る。

「すみませんね。この子、あなたのことが大好きで聞かないんですよ」
「いえいえ」
「いくら『王冠つけなくて良いの?』って聞いても──」

 必然と言わんばかりに遮られた。
 
「G1で勝ったら付けるもん!」
「──って言って。どうか1枚だけでもお写真を撮って下さいませんか?」

 パシャリ。カメラは向こうが持っていたから、とりあえず。
 お父さんが続けた。

「やっぱり、記事の件は本当だったんですね」

 記憶喪失のことだろう。そう検討がつく。

「えぇ。今までのマーチャンなら、ファンとの撮影を1枚で終わらせることなんて有り得なかったですから。今はその治療中なんですけど、まぁ、その、色々とありまして」
「そうなんですか。これは踏み入ってしまい申し訳ない」
「いえいえとんでもない。本人にとっても、良い刺激になっているようですから」

 娘さんがマーちゃんの右手を引っ張って質問をした。

「あのレース、覚えてないの?」
「あのレースとは……なんでしょう」
マイルチャンピオンシップ……」
「あっ……。はい……。聞いたことだけ……」

 スタンド席の右端まで連れて行って、更に右斜め前を指差した。芝1600メートルにおけるスタート地点だ。
 マイルチャンピオンシップはね。それから始まる解説は、情景が目の前に浮かぶくらい鮮明だった。
 大事故のインパクトがそうさせたのか。俺はそうあ思わずに居られなかった。娘さんが否定した。

「頑張って逃げ切ろうとするマーチャンが好きだったの! 怪我も乗り越えて帰ってきてくれる。そうでしょ、トレーナーさん?」
「あ、あぁ」

 マーチャンの方を振り返った彼女は言う。

「ねぇねぇ、あそこ、覚えてる? 本当に惜しかったんだよ」

 少女がすぐ目の前を指差した。そこは先ほどマーチャンが見つめていた場所──残り100メートル地点だった。最終直線。マスコットの墓場。

「痛ッ──」

 その2文字を音に変えたのは、マーチャンの声だった。ガシャリ。フェンスの軋む音がする。
 墓場に目を奪われていたから、俺は遅れて気がついた。額と生え際の境目を両手で抑える彼女が、ふらふらと揺れている。
 
「おい?!」

 すぐさま席に座らせる。しかし、ゆらゆら、ゆらゆら。
 頭をぐるりと一周させて、俯きながら彼女は言った。

「そうです。私のピッチ走法が乱れて、転んで──」

 そう、そこの柵にぶつかったの。頭を蹴り上げられたの。
 ゆらゆら、ゆらゆら。
 少女の言葉はトリガーする。

「あっ──」

 揺らぎがピタリと静まった。目を見開いたまま硬直する。その視線は、右脚を捉えていた。
 どれくらいの間だっただろう。その小さな背中が、ガタガタと震えだした。

「ッハッ、ア゛ッ──」

 彼女を襲ったのは過呼吸だった。右の太ももに爪を立てて、白い肉をザリザリと削り取る。目の前にあるのは、初めて発作を見たあの日と同じ光景。
 刺激が強すぎた。少女はパパの後ろへと避難させる。今にも泣き出しそうな両目に手を当てて、ママが階段の上へと遠ざけた。
 俺はトレーナーの心得を復習する。

「大丈夫か?! ゆっくり息を吐き出してみろ! 吸うな!」

 背中をさする。リズムを刻む。ビニール袋を口に当てて「安心しろ」と声をかける。止まらない。
 トレーナーの心得⑦〈精神的な問題が考えられる場合:処置を終えても症状が改善しないならば、安心させることを優先せよ〉。これしかない。
 小刻みに震えている背中に、俺は両腕を回す。考えるよりも先に身体が動いていた。
 状況から言えば、どう見ても抱きしめていた。

「ごめん、ごめん。俺が悪かったから。なぁ、なぁ……」

 治るんじゃなかったのかよ。終わるんじゃなかったのかよ。何で、どうして。──どうしてじゃないか。ツケが回ったのか。
 もう意地でも責任でも何でも良いからさ、早く治ってくれよ頼むから。どうして俺たちばかりが、こうも理不尽な目に遭う?
 学園で君とコーヒーを飲んで、小説を読んで。商店街でクリスマスプレゼントを買って、手袋を半分こしたらそれすらも忘れられて。
 遊んでいたから──はい、リセット。そんな人生をリセットするなんて、あまりにも勿体ない。そう決心したから、やり直せたのに。俺なりに頑張ったのに。
 1からジェンガを築いたけれど、それでさえ忘れてしまうんだね、君は。もう嫌だ。

「ごめんな……ごめんな……」

 後悔は先に立たなかった。後ろ髪を撫でる度に、伊達メガネのフレームが俺のこめかみを擦るのだ。静脈の荒ぶりを頬で感じとる。なぜ止まらない。
 約束に世間体、契約解除。身体の心配よりも先に、前借りした脅し文句が返済される。もう本当に、贅沢ばかりが頭をよぎる。

「あなた──は────に」

 カチ、カチ、と歯を噛み合わせながら、マーチャンは何かを伝えようとした。多分、記憶の欠片だ。
 でも言葉に直す前に、彼女はガクリとうな垂れた。
 脱力しきった脳部って重いんだよ。さながら鉄球だ。俺の左肩に転がっていたのは、だだの肉の塊だった。
 それ以降は朧げだ。救急車で受け入れ可能な病院を探している時から、検査するまで。1人で帰る時も、ずっと。
 分かったことは1つ。“アストンマーチャン”は死亡したという事実だけ。1度ならず2度までも。記憶も無ければ口も聞かない。ほとんど植物同然になった。
  “トレーナー”もまた、くたばった。まさか同じ競馬場に墓を建てられるとは。不幸中の幸いか。俺は、それだけで充分だと思っている。
 

 

5.【裏切りと責任】

「何してんですか?!」

 東京に帰って数日後。ナースステーションでの開口1番がそれだった。予想はしていたが、いざ言われると。
 マーチャンのお母さんも雑言は沢山あったと思う。プライベートだったら、その場でブン殴りたかっただろうとも思う。
 マーチャンは神戸総合病院に居ますよ。1人で帰ってきた旨を伝えたら、もっと怒られた。

「バカなんですか?! そうですよね?! あぁ、信じなければよかった!! もう良いです、私が連れて帰りますから!」

 涙を流しながら発狂していた。そりゃそうだ。後ろでキーボードを打つナースさんも、彼女を止めようとはしない。みな目を伏せている。俺は、ぶつぶつと謝ることしか出来なかった。
 背中に人が溜まって列になる。受付が滞る。ナイフに貫かれるようだった。

「お願いします。では」

 俺はポケットに手を突っ込んでクルリと背を向けた。本当の意味で逃げ出した。投げ出したから、追いかけられた。

「待ちなさいよこの人殺し! あぁ〜〜、もうっ! あなたをトレーナーにしなければ良かった!!」

 病院で走るな。知らねぇよ。

「言ったじゃないの、娘に忘られたくないって。約束したじゃないの……」

 ひたすらに全力だった。あの場の全員が敵のように感じられたから。逃げれば逃げるほど、掠れた声は遠く、遠く離れていった。上がった息と心臓の鼓動がうるさい。黙れ。
 叱責のLINEは既読だけ。とりあえず、画面が硬い文字でビッシリと埋め尽くされていたことは覚えている。消音モードに設定して、情報を完全にシャットアウト。
 怒り狂った彼女は全てをメディアにリークする。それからの俺は腫れモノ扱いだった。いつ何処を歩こうと背後に気配を感じるのだ。

「よくトレーナーでいられるよね」

 誰が言ったかも分からない。そうだよな。みんなそう思ってるよな。納得する自分が居た。まだ悪者の方がマシだったのかもしれない。吹っ切れられたのに。
 無断欠勤こそしないけれど、有給休暇は確実に減った。1週間ほど閉じこもっていたら、体重もゴッソリと減った。髭を蓄え過ぎている。洗面所の鏡に映る俺は、罹ったら診断書を下されかねない顔つきをしていた。
 嫌がらせも少々。というか、日に日に増えた。切り抜きの悪口は序の口で、ついには殺人予告まで来た。参ったな。
 いっそ旅にでも出ようか。誰も俺のことを知らない、人里離れた森の奥にでも。
 そうだ。ロープでもあれば良い。腹を満たせれば獣の為にもなる。

 ──海は命が流れていくところです。

 俺にその資格はない。アイツは海で流されて輪廻して。いつの日かアストンマーチャンとして転生できれば本望だろう。
 俺は──埋め立てられるのが似合っている。山の中なんてどうだろうか。
 墓場は同じだ。恐れるな。だが最低限のケジメを付ける必要があるだろう。
 現役続行なんて夢のまた夢。俺は理事長室に赴いて、保留していた件に区切りをつけなければ。契約解除の書類に印鑑を押した。せめてもの罪滅ぼしをする。
 提出の間際、理事長に書類を返された。

「無念! 本当にそれで良いのだろうか?! いま一度、考え直してはくれまいか?」
「もう良いんです。疲れました」
「ならば君に問おう! トレーナーとして本当に必要なモノは何だと思うかね?」
「さぁ……? 何でしょうね。G1を勝たせてあげられる手腕なんてあれば良いんじゃないですか? まぁ……。そんな大層な才能、俺には無かったようですが」

 扇子をばさりと広げて彼女は否定した。

「否! 確かにそれも大切だが、断じて否だ! 本当に大切なのは心構え。担当ウマ娘に寄り添える精神力こそが最も必要なのであって、君はそれを持っているだろう。聞けば、記憶を取り戻すために彼女の側に居続けたそうじゃないか」
「えぇ、寄り添いましたよ。それで全部上手くいってれば、ここへ来てないですが」
「あぁ。……だが私としても、君のようなウマ娘想いな者を失いたくはないのだよ。アストンマーチャンのトレーナーは君にしか務まらないと思っている」
「そうですか。……なら理事長は、懇意を『遊んでいる』のひとことで片付けられたことはありますか?」

 ほう、と扇子が閉じられる。彼女の頭に乗る猫が、1度だけニャアと空に鳴いた。

「それで賭けてみたらこのザマです。半ば強制的とはいえど、たかが十数歳のコトバを鵜呑みにするトレーナーなんて本当に必要ですか? 良い大人がですよ。学園の看板に土まで付けて」
「確かに。君のしたことは看板に泥を塗るような行為だったかもしれないな。親御さんを裏切るような行為だっただろう。だが、それは結果に過ぎない。アストンマーチャンを、彼女を、大切に想ってのことだった。そうだろう?」
「そんなの詭弁です。あなたが許しても、お母様は許さない。お気持ちは嬉しいですが、もう放っておいて下さい。お願いします」

 受け取る気なんて無さそうだったから、俺は机の上に置いて部屋を後にした。案の定「まだ受け取らないでおく」と言われたけれど、知ったことではない。
 家にいても窮屈だったからトレーナー室にいることが多くなった。有給を使い終えてからの俺は事務に専念した。中間テストを採点したり、未デビューの生徒データをExcelの表にまとめたり。4月から新学年ということで、担当が居なかろうと仕事が舞い込んでくる。
 トレーナー室の掃除もした。錆びかけたトロフィーは段ボール箱へ。LOVEだっちはカバーを外して紙袋の中に積む。マーちゃん人形を、90リットルのゴミ袋に詰め込んだ。身辺整理と呼ぶべきなのかもしれない。
 ソファの裏に冷蔵庫の上。人形が至る所に隠されていた。どれも埃まみれ。残したひとつは麻縄と共にリュックの中。
 隠されたヤツほどデカくてさ。どのゴミ袋もパンパンに膨らんだ。私のこと忘れないで下さいね。そんな、儚く散った少女のことを思う。


    †


 それは、狼の咆哮が聞こえそうな夜のことだった。ダンボール箱と膨らんだポリ袋が満たす空間の中で、ソファが、ポツリ。
 明日は休日。眠れそうもない。唯一残された家具に寝転がって、俺はスマホの液晶をスライドする。
 第159話。暗がりにボンヤリと浮かぶタイトルリンクを、右手の親指で押し込んだ。あれだけ書いたweb漫画を開く。

「うわっ。懐かし」

 その備忘録に声が出た。銅像建てるなどして呼び出された回も、今となっては笑い話。俺は「こんなこともあったなぁ」なんて呟きながら、最後のページに辿り着く。
 更新が、数週間前で止まっている。やたらと膨らんだコメント数。覗けば心配ばかりが寄せられていた。やめてくれ。揺らぎそうになる。
 4/30/AM2:16。デジタル時計に目をやって信じられなくなる。普段の俺ならば絶対に寝ている時間だ。無理やり目を閉じる。朝日が昇るまでは、せめて。その矢先、瞼の裏に光を感じた。
 正体はLINEの通知だった。ホーム画面に浮かぶバー通知で宛先人は確認できた。たづなさんからだと? 俺は深く押し込んで内容を確認した。既読は付けない。
 夜分遅くに失礼します。それから始まる丁寧な文章にも関わらず、ことは急を要していた。

 ──アストンマーチャンさんが病院から脱走したようで、そちらで見かけていませんか?

「はッ……?」

 脱走とはまた見覚えのある。溜め息が出そうにもなる。アイツは忘れても同じことを繰り返すんだな。まぁ、もう俺には関係ないことだがな。未読無視ってやつをする。
 まぁ、どうせ明日はやることが無い。俺は徹夜を覚悟してコーヒーメーカーのスイッチをオンにした。ふわりと、リハビリの日々が香る。
 必然と言うべきなのだろうか。メーカーのスイッチがカチリと知らせる頃。真夜中の招かざる客があった。コンコンコンと、扉を叩く3回のノック。緑の人かと思ったら違うようだ。

「なぁ起きてるか? 入るぞ」
「あぁ、どうぞ」
「サンキュー」

 扉の先にいたのはウオッカだった。そのすぐ後ろにダイワスカーレット。2人とも、赤い体操着に身を包んでいる。
 辺りをグルリと見回して、ウオッカは感想を口にした。

「うわっ。俺の部屋みてーだな。あんたなんで荷物まとめてんだよ。辞めるわけじゃないんだろ?」
「ちょっとアンタ、あんまジロジロ見ないの」
「構わないよ、ちょうどコーヒー飲もうと思ってたし。1杯どう?」
「ありがとうございます。でも、今はいいです」
「なるほど。君たちは何をしに?」
「メール読んで無いんですか?」
「疑問を疑問で返すのは感心しないな」

 2人曰く、マーチャンは学園のターフで走っているらしい。ウマ娘を止めるにはウマ娘しか居ないということで、2人が駆り出されたと言う。

「なるほど。だからこの時間に。体操服を着ているわけだ」
「なるほどって……」
「なぁ、オメーは良いのかよ、そんなんで」
「と、言うと?」
「本当に俺たちが止めて良いのかよ? パワーでこそ止まるだろうけど、意味ねーと思うんだ」
「知らないよ。もう、解約は終わってる。“シニア期までに成果を挙げられなかったウマ娘は契約を解除される”。そうだろ?」

 ウオッカは眉間にシワを寄せて、尻尾で木の床をパタリとはたいた。

「ちょっと、そんな言い方ないじゃない。仮にもトレーナーやってた立場でしょ?」
「やってたからこそ、その意味をよく知ってる。トレーナーだって、早めに見切りを付けないと生きていけないからね」

 スカーレットに嘘は通らない。うっすらと目を細めて、躊躇いながらも言った。

「──生きる気なんて、ないくせに」
「は? おいお前、そりゃ無いだろ」
「あんたは黙ってて。私だって言いたいこと溜まってるんだから」
「……なんでそう思う?」
「この部屋見れば1発で分かるわよ。トレーナー業を辞めるわけでもないのに、この片づけ具合。まるで身辺整理じゃない。どうせ下らないこと考えてたんでしょ。さっさとマーチャンを助けて来なさいよ」
「いや……勝てないな、お前には。レースも勉強も、どんなものでも俺たちを超えやがる」

 恨んでない。選手達が全力を出した結果だから。でも。

「君たちは何も知らないだろ。気持ちは嬉しいが、部外者に口を出される謂れは無いな」

 スカーレットは両ミミをキュッと絞って、語彙を強めた。

「マーチャンの気持ちなら、あんたよりも断ッ然分かってるわよ! あんた、隣にいたくせに何も見抜けてない。何でマーチャンが殻に篭ったのか、本当に分からないの?」
「おいおいおいスカーレット。そりゃ言っちゃダメだろ。さっきからどうしたんだよ」
「うっさい!コイツは言わなきゃ分かんないのよ。本当に、情けない」
「なんだよさっきから。もう帰ってくれ」
「いいや聞きなさい。あの子はね、呪いに苦しんでいるのよ」
「は?」
「呪縛に縛られながらも、あなたを……それこそ死ぬほど欲しかったのよ」
「待てよ、どういう──」
「なぁ、言われたことあるんじゃねぇのか?」

 確かに、心あたりはあった。
 有マ記念の時だ。確かに彼女は契約の更新を望んでいた。確実に俺を求めていた。

「あいつ、お前のこと大好きだったんだぞ」
「でも。それは──」
「えぇ、そうでしょうね。あの子なら変な隠し文句でもつけたでしょうね。違うわよバカ」

 スカーレットが「あのね」と続ける。

「マーチャンはね、あなたが思っているよりもずっと計算高くて、聡明なの」
「知ってるよ、計算高いことなんて。いや──」

 アイツは先が読めるゆえに、理解するのも早かった。だからこそ線路に飛び込むような選択肢を俺に強いた。自分の思い描く選択がされることを信用しきっていたから。思い出すキッカケとして、手袋だって渡してきた。
 それが有馬記念の時も同様だったならば? メッセージを思い返せ。

 ──「恋人には、なれません。多くも望みません。だからせめて、契約の更新くらいは願っても良いと思うのです。私のトレーナーであり続けてください。来年も、その先も」

 そうか。アイツは同じ舟に乗せた俺だけを、心の底から信頼したかったんだ。例え世間であらうと友達であろうと、この世に生きる誰1人の記憶から抹消されようと、せめてもの絶対を欲しがった。心の底から信頼したくて、手を伸ばした。
 結局のところ、俺たちはどこまでも生徒と学生なのであって、決してその先を目指すことはない。それこそスカーレットに匹敵する成果を上げなければ。
 いや、マイルチャンピオンシップに敗けている。夢は潰えている。あぁ、そうか。

 ──マーチャンは絶対に忘れられたく無かったのだ、俺だけには。

 なぜマーチャンは、今まで人を舟に乗せなかったんだ? 信頼しきれなかったんだ?
 違う。それが呪いなんだ。医者の娘として産まれたからこその、深い深い、業。

 ──病院は命が流れるところです。

 それは彼女がマスコットたる根幹だ。まさか呪いだったなんて。俺は1度たりとも考えたことが無かった。
 
 ──ターフも命が流れ落ちるところです。

 怪我をすれば選手として、死ぬ。レースでも同じことが言えている。
 だからこそ、マーチャンは当てはめざるを得なかった。幼い頃に刷り込まれた、鎖のような呪いを。

 成果を挙げられず呪いに縛られて、信頼した俺からは契約の満了を告げられて、後ろを振り返っても誰ひとり居なくて、隣にすら──。

 あァ。君はそれを恐れていたのから、記憶を本能的に閉じ込めた。脳が全てを計算した上で導かれた最適解が、解離性健忘だったのだと思う。
 同じ舟に乗せたヒトが荒波に呑まれて死ぬくらいならば、初めから無かったことにしてしまえ。出航記録を書き換えてしまえば死ぬことはない。死んだことにもならない。
 バカ野郎。忘れるワケないだろうが。契約更新だって約束しただろ。
 いや。
 バカは俺か。
 カリソメばかりを結んで、呪縛に気がついてやれなかった。ヒントは出されていたではないか。なぜ理解できなかったのか。もう本当に、言葉にならないモノばかりが降り積もる。
 俺は分かっているようで、何1つ理解できていなかった。
 
「マジかよ……」
「まぁ……同情の余地はあるわね。多分、原因を特定できたとしても、あなただけでは治しようがないわ。恐らくあの子の中で完全に精算しきらない限りは、一生ループする」
「……」
「私だって気持ち悪いのよ。私がマイルチャンピオンシップで勝ってから、あぁなったんでしょ? 手にかけたみたいじゃない。マーチャンとは、まだ走っていたいのよ」

 あの子もウオッカみたいに──。それ以降を続けることはなかった。それは友達としての願いか。女王としての余裕か。明らかに前者だった。今度こそ、真意は汲み取れた。

「アイツが俺みたいになるのは許せねぇな。責任とってこいよな、後悔する前に」
「説得されたって、俺は、すでに色々な人に──」
「んー……説得じゃねぇな。トレーナー辞めンなら止めはしねぇ。でも何より救われないのはマーチャンだろ。アイツは生きたがってんだよ。逃げるにしても、せめてスジ通すのが大人ってモンだろ?」
「死ぬなら責任とってからにしなさい。許されるかなんてどうでも良いのよ。姿勢よ、姿勢」

 言われなくたって分かってる、そんなこと。知ってて逃げているんだよ。みっともないって笑えば良い。でもさ。

ウマ娘ってのはな、2度死ぬんだよ。選手として、生き物として。オレみたいに、心臓が止まる前に死を経験するんだよ。なぁどう思う? それすらも忘れられたら幸せだと思うのかよ?少なくとも俺はそうは思わねェ。ウマ娘は困難を乗り越えてからオトナになるんだよ。正直、俺もトレーナーと離れるのは辛かったけど、今ではそれで良かったと思ってる。10年後に酒でも呑もうって約束できて、幸せだったしな」
「トレーナーとしての責任……か」
「おうよ」

 山に埋まるにしては早過ぎたのかも知れない。俺はそう思った。冷めかけたコーヒーから湯気がユラリ、揺れる。

「ごめん。ちょっと行ってくる」
「やっとね。第3ターフよ。マイルのとこ」
「助かる。ありがとう2人とも」
「おうよ」
 
 ウオッカはそう言って、小さな拳を俺の胸にぽすりと当てた。また割れそうな顔をしていた。ごめんな思い出させて。

「3度目は無ぇからな、今回こそ救ってこいよ。正直になってこい」
「あぁ。ごめん。ありがとう」

 俺はトレーナー室を飛び出した。全力で、走った。駅のホームへ急いだ時よりも速く。履き替えるのも忘れて死に物狂いで脚を回す。今なら、ウマ娘にも勝てるような気がした。

 

 マーチャンも暗闇の中を走っていた。ピッチ走法なんて覚えてるはずがなかった。明かりもつけず、ヨタヨタと足元をフラつかせながら前へ進む。ヒトでも追いつけるほど、遅かった。ほとんど過呼吸な息継ぎをしながら、憑かれたように前だけを見ている。

「マーチャン!」

 前に立ちはだかったのに無視された。すれ違う。いくら呼んだって止まろうとしないから、俺は後ろから左肩を掴んだ。それで、ようやく。
 マーチャンは患者服のままで、裸足だった。白い靴下は網目のように、赤く、滲んでいた。両膝も傷だらけ。何回転んだのか分からない。誰が見たって、選手とは思えないバ体だった。問いかける声も、やすりで削ったみたいに細かった。

「どなた、です、か? 何で止めたんですか?」

 トレーナーだった人だよ。いつかのセリフを繰り返す。
 ダメだった。思い出してしまった。楽しくて、辛かった日々を。泣きそうだった。忘れられていた事実よりも思い出の方が、よほどキツかった。
 なぁ、俺のことなんか覚えてないだろうけど、せめて謝らせてくれよ頼むから。

「ごめんね」

 何よりも伝えたかったことを言う。全部を要約したことを言う。それで足りるなんて、到底思わなかったけれど。言葉にならないな。本当に、似たセリフばかりが口をつく。

「走らせて……下さい」

 マーチャンは虚の中に生きていた。見たこともない成人男性なんて跳ね除けて、ボロボロな脚で立ちあがろうとする。もう良いから、休め。
 そうか。君は人生にカンマを欲しがっているのか。まるで文豪が書いた長く美しい文章のように、どこかで節目をつけて整理をしようとしているのか。
 走って、走って、虚構を追いかけて。そうやって、ダイワスカーレットに勝とうとする。
 俺は全部、吐き出した。ガキでごめんねとか、想いに気がついてあげられなくてごめんねとか。1人よがりであって、決してそうではない独白を告げる。最後にずっと一緒に居ようねって、言った。

「なんで……やめて下さいよ……。トレーナーって何ですか……。でも、でも、なんでこんなに悲しい気持ちになるんですか?」
 
 感情だけは覚えている。君の言ったことだ。どんなに忘れても、想いだけは残っている。
 マーチャンは、まるでダムが決壊したように泣いた。何を堰き止めていたのかも分からないだろうけど、ずっと、ずっと。透明な粒がやわらかな頬を滑り落ちる。1粒では足りなくて、ぽだぽたと芝を濡らしていた。

「もう、俺には必要ないね、これは」

 俺は誓いを再現する。左片方の手袋で角質の割れた右手を握った。骨の浮く、痩せ細った指。また強く握って、脱いで、彼女に纏わせた。少しぶかぶか。

「えっ、あっ、それ──」

 患者服のポケットから出てきたのは、もう片方だった。新品のように綺麗で、左とくっつけてハートになる。あなたの、少しボロボロですね。

「なんでまだ持って……」
「……これを見るたびに、なぜか胸が痛んだので」
「うん。うん。そっか。そうなんだね」

 俺は右、彼女は左。交換して、着けて、手を繋いで、黒いハートを完成させて。そうやって恋人みたいなことをする。逆に君のハートはキレイだね。大切にしてくれたんだ。
 ボンヤリと滲んで輪郭しか見えなかったけれど、それは決して暗闇のせいでは無かった。

「ずっと持ってたんですよ。えへへ、あったかい」

 2人とも鼻をすすってばかりだったけど、それ以上の言葉は不要だった。あとは呪いを解くだけだ。精算しよう。

「ゴールで待ってるからさ。全力で走って来てよ」

 俺たちはクリスマスより以前──さらに過去の記憶を再現する。芝1600メートル。神速マイラーは2人いる。1番人気、ダイワスカーレット 。0番人気、アストンマーチャン
 俺は右片方を彼女に渡して、携帯の電源をつけた。久しぶりにストップウォッチを起動する。

「行ってきます」
「うん」

 春の風だけが音を立てる空の下で、マイルチャンピオンシップは始まった。向こう正面のスターティングゲートから飛び出す影が1つ。吐き出される白い息が、汽車の煙のようになびいていた。
 先頭を独占して600メートル地点。序盤で既に後方へと呑み込まれているタイムだったけれど、その脚色は衰えない。必死になってクルクルと脚を回す姿が人の心を掴むのだ。

「頑張れ!!」

 心の底から思ったことを叫ぶ。彼女の赤い唇が薄く、弧を描いた。息も上がって、ペースだって落ちているのに。彼女はニコニコと笑いながらコーナーを回った。曲がりきると最終直線──“アストンマーチャン ”の墓場に差し掛かる。あと100メートル。足が止まりかける。トラウマが蘇ったのか? いずれにせよ、スタミナは限界を迎えているようだった。 

「そこで止まるな!! 戻ってこい!」

 俺から出迎えることはしない。ゴールへと辿り着くことに意味がある。かつて身体を打ちつけた鉄柵に寄り添いながら、今にも消えそうな灯火は歩を進める。ゆっくり、ゆっくりと。
 3:05:27。それがゴールタイムだった。どのレースよりも遅い結果。でも──。

「ありがとう……」

 それが本心だった。やっと、彼女は幻影を抜き去れたように思う。俺は身体を引きずるマーチャンを受け止めて、思い切り抱きしめた。ぜいぜいと、苦しそうな息遣いが耳に当たる。
 
「勝て、まし、た」

 俺はつぎはぎになった言葉を聞く。思い出したのかも分からない、曖昧なセリフだった。最後のごめんねを告げてから、おめでとうを添える。俺の背後を指さす彼女は言った。

「むふふ。眩しいですね」
「ん?」
「朝ですよ。見て下さい。ほら後ろです、後ろ」

 キラキラと、校舎の隙間から白い光が漏れている。校舎裏から登る朝日の出。あっという間に地面を新緑の色に染め上げた。彼女のひたいから汗が滑って、鎖骨にスルリと滑り込む。スマホのデジタル時計は5時53分を示していた。

「あぁ、もうそんな──。って、朝練が始まる時間か」
「そうですね。色々とマズそうなので、早く逃げちゃいましょっか。でも、もう動けそうもないので──」

 俺が振り返されたことを計算にしていたかのように、マーチャンは俺の背中に飛び乗った。軽い。これは体重を増やさないと。

「病院に運んでください。多分、今頃大騒ぎなので」
「まったくだよ。ん〜……にしても気まずいな」
「何かしたんですか?」
「追い追い説明するよ」
「わかりました」

 1歩でも、俺達は前に進めたのかな。大人になれたのかな。そうであってほしい。俺は切にそう願っている。

 


6【エンディング:小説は現実よりも奇なり】

「LOVEだっち、今日で最終巻らしいぞ」
「なんと。それは見逃せないですね」
「帰りに買ってく?」
「はいなのです」

 マーチャンはハンガーの柄に掛かったロイヤルクラウンを頭に着けて、ふんすと意気込んだ。中山競馬場の控え室で、俺たちは呑気な話をしていた時のことだ。今から有馬記念を走る。そんな雰囲気には到底見えないのだが。
 シニアを超えた今でもマスコットは健在だ。相変わらずのマーチャンがそこにいる。とは言えど完全に思い出したわけではなくて。記憶は断片的に復元されている。ゆっくりとではあるが、取り戻しつつある。

「勝たないとお母さんに面目たたないですね」
「うっ。プレッシャーかけんなって」
「冗談ですよ。まぁ、見ていてください」

 マーチャンのお母さまとは……その、色々あった。契約は……まぁ無理だと思っていたんだけど、マーチャンが強硬策に出た。
 判子を押すだけ押して、さっさと提出。早い者勝ちだと言わんばかり。鬼の居ぬ間に洗濯。
 あの、病院を脱走した日以降の俺は全力でマーチャンの実家に通い詰めている。初めこそ門前払いされていたけど、最近は敷居を跨げるようになった。靴を脱ぐことは許されない。座布団で謝れるのは5年後かなぁなんて話をしながら今日に至る。
 これを最後のワガママにしようと思っている。態度で示す。トレーナーとしての責任を果たす。その道半ば。

「賭けをしましょうトレーナーさん」
「ん?なんの?」
「1着を獲ったら、私から読ませて下さい。
「仕方ないなぁ。あっ、なら2冊買う?」
「それじゃあトレーナー室に遊びに行く口実が無くなるじゃないですか」
「それ言っちゃうのか。別にいつでも来て良いのに」
「もう、鈍感さんですね。まぁ良いです。それと、もう1つだけ、大切なお願いがあるのですが」
「うん」
「スパイごっこをした時のこと、覚えてますか?」
「もちろん。アレだろ? 記者達から逃げて学園に行った時のやつ」
「はい。今回もそのようにして、最終巻の内容をなぞって下さい。まぁ、勝ったらで良いですけども」
「……? おっけー」
「はい。録音しましたので。そろそろ行きましょうか」
「マジ? まぁ良いけどさ」

 何を言いたいのか、少し分かった。フィナーレは最後に、多分そういうことなのだろう。


 有馬記念──中山 雪 重 右

 ・1番人気、アストンマーチャン

 ・2番人気、ダイワスカーレット

 
 グラグラと、中山競馬場がヒトの躍動に揺れている。観客席の熱量は真夏日さながらだ。うっすらと蒸気が立ち昇る。空に消える白い煙があれば空から舞い落ちる白雪もある。
 フリーランス等級でのドリームレース。充分にメディアの視線を引いた。否定したはずの約束を果たす時だ。短距離マイル路線のマーチャンが勝ったら、まぁ、ヤバい。
 過去に「無理だ」と押し付けた現実を撤回できる。負けるとは思ってない。むしろ真逆だ。頼むから勝ってくれ。いや勝てる。

「マーチャンさん〜!!」

 観客席の最前列から聞き馴染みのない声がした。しかしその顔は知っている。イヤリングのロイヤルクラウンを忘れるはずが無い。ファンの子だ。本格化を迎えたらしく、その姿と背格好は第2のマーチャンと言ったところ。
 当の本人はトコトコと近づいて「お久しぶりですね」と声をかけた。

「あっ。覚えていてくれたんですね!」
「もちろんです。元気にしていましたか?」
「はい!見て下さい。この冠!」

 その娘が指を差したのは、マーチャンよりもひとまわり小さなロイヤルクラウンだった。頭に添えている。

「勝てたのですね。おめでとうございます」
「ありがとうございます! 私の憧れはいつでもあなた様です。2度と忘れません。その背中、まだ追いかけても良いですか?」
「はい。もちろん。では、お祝いをしましょうか」

 マーチャンはそう言って、自分の冠と交換した。

「門出です。あなたにこれを託します。いつか返しに来て下さいね。待ってますよ」
「〜〜ッ、はいッ!」

 耳がキンとするほど張り切った声だった。こうやって世代は移り変わる。例えウマ娘が選手として死んだとしても、憧れは遺伝子として受け継がれる。
 爪痕だなんてそんな冷たいものではなくて。もっと、ずっと、温もりに包まれている。

「おーい!マーチャン!」

 今度はスカーレットの近くから、よく馴染んだ声がした。ウオッカだ。フェンスに顔をくっつけている。俺たちに向けてブンブンと手を振っていた。今ではコーチの資格を取るために励んでいるらしい。頑張れ。

「よ! お前ら遂に対決か!楽しみ過ぎて眠れなかったぜ!」
「あったりまえじゃない! マーチャンも、今日はよろしくね。お互いにいい勝負をしましょ」
「はい。よろしくお願いします」
「なんだよ堅ぇな〜。俺が走れなかった分まで、ちゃんと1着獲ってこいよ」
「はい。負けられない理由が色々とあるので」
「あんたはどっちが勝つと思う?」
「そりゃまぁ、マーチャンだろ」
「ちょっとあんた!」
「ふふふ──」

 良い友達に恵まれたね。心の底から思い直す。俺は踵を返してトレーナー待機場所のパイプ椅子に腰をかけた。後は見守るだけ。のびのびと走ってこい。

 

     †

 

 LOVEだっち。最終巻で主人公はヒロインと結婚する。言ってしまえば、つまり、そういうことだ。多分、全部知ってる上で約束させたな、アイツ。
 ホント計算してるんだか偶然なんだか。結局先に読んだのはマーチャンで、終始ニヤニヤしてたからさ。うん、ね。
 まぁどちらでも良いか。俺はあいつから最終巻を受け取って、ソファにゆっくりと腰を掛けた。
 コーヒーマシーンの黒い機体に、陽の光がチカチカと跳ねている。表紙をうっすらと照らす屈折光。しおりの紐は血を染み抜いたように赤かった。
 俺のやるべきことは変わらない。専属レンズであり続ける。ただ、それだけだ。
 
 壊さないように、振り返る。
 壊れないように、前へ進む。

 

 

 

 アストンマーチャンの忘却ーfinー