あげのウマ娘小説置き場

ウマ娘の小説を書きます。感想を頂けると嬉しいです。

アストンマーチャンの忘却

0.【プロローグ:現実は小説よりも奇なり】

 アストンマーチャンを阻む者はいなかった。後方のバ軍から2バ身ほど抜け出している。阪神の芝1600メートル──マイルチャンピオンシップにおいて、誰もが彼女の勝利を確信していた。
 ──その時までは。
 終盤に差し掛かった先団は加速する。残り400メートルの最終直線。先頭を走るマーチャンは、つま先に力を込めた。はずみを付けて最高速度を目指す。
 だが中盤のリードが足りていない。伸び切らなかった。後方の末脚が、彼女の背後に鋭く迫っている。うなじに視線を受ける。突き刺される。背中の筋肉がブルリ、震えた。
 200メートルを通過する。あと1バ身。すぐ右後ろまで追い上げたのはダイワスカーレットだ。荒々しい息遣いがマーチャンのミミをつんざいた。
 2人で飛び出した。この競り合いで勝負が決まる。クライマックスは行方は神のみが知っている。──はずだった。スタンド席から2人を指差したのは観客だ。その指先が運命の天秤をつつく。

「おい、おかしくないか?!」

 その声はアストンマーチャンを捉えていた。声を荒げた理由は、他の者も理解している。彼女の歩幅が“開いている”。
 ピッチ走法──脚を高速で回転させるその走り方は彼女のチャームポイントだ。最適な型だが、崩れている。
 マーチャンには焦りがあった。困惑もあった。ドッドッドッと、芝を蹴り抜くスライド音が歩幅を狂わせる。後100メートル。かろうじて耐えられるか。
 ──いや。
 がむしゃらに回した脚は、あっという間に限界を迎えた。
 ちぎれる。つまずく。投げ出される。マーチャンは芝の上をゴロゴロと転がって、内ラチの鉄柵に背中を打ち付けた。
 脚質も災いした。6名の超特急が青空を横切っていく。

 ──バキリ。

 噛み合った。飛び越える最後の右脚が、彼女の後頭部をサッカーボールのように蹴り上げた。ガツン。投げ出された身体が鉄柵を揺らす。意識が雲々の分身へと白んでゆく。
 ターフに飛び出したのはマーチャンのトレーナーだ。トレーナーの心得⑤〈事故発生直後のバ体には触らぬこと〉。知るか。すぐさま駆け寄った。
 マーチャンの手を握って、彼は叫んだ。

「マーチャン? マーチャン?! 聞こえるか?!!」

 身体を揺すらずに肉声で確認する。これが彼にできる最大限の配慮だった。痙攣を起こした右脚が、ビクビクと引き攣るだけである。担架が到着してからも、一度だって彼女は目を開かなかった。
 さて“神速マイラー”の夢はこれにて終幕。その称号はダイワスカーレットに譲られた。
 彼は奥歯をぎりりと噛み締めて、すぐさま電子掲示板を確認する。1着の欄にはダイワスカーレット。1:37:98。視線の先で薄橙色の「確定」が光っていた。


1.【すれ違う2人】

 人の死を定義する時、かの者は「忘れ去られた瞬間」を引き合いに出す。ある者は「心肺の停止」を例に挙げた。その完答は存在しない。哲学と生物学は相容れない。
 医療の場において後者が優先されることなど、言うまでもないだろう。だがマーチャンにとって、それはどちらも同義だった。
 人々の記憶から抜け落ちれば“アストンマーチャン”は地に堕ちる。

「はぁ」

 溜め息を零したのは担当医もといマーチャンの母親だ。あのマスコットが歳を取ったら、こんな方になるのだろう。そう思えるほどキレイなヒト。
 だが、彼女はペン先をカチカチと忙しなく入れ替えるばかりだった。膝下まで伸びる白衣が、回転椅子からダラリと垂れている。アルコールの匂いが充満する白い箱の中で、医者としての彼女は静かに言い放った。

「靭帯損傷に肉離れ。怪我の方は全治2か月です」

 まさに今、マーチャンはその“死”に直面していた。額から後頭部にかけて包帯が巻かれている。右脚にはギプス。車椅子が移動の絶対条件となった。

「怪我の方は……?」
「えぇ。脳にも異常が無いか確認するためにMRIを撮ったのですが……」

 歯切れが悪そうに続けた。

「解離性健忘、或いは解離性遁走の兆候が見られます」
「は……?」
「なんでしょう、それは。あの、お母さん、マーチャンは一体どうなってしまうのでしょう?」
「結論から言うと、日を追うごとにマーチャンの記憶は消えていく。本当に、最悪。なんで……」
「なんと、なんと」
「では先ずこちらを」

 俺はカルテを手渡された。正常な脳と比較した写真だ。読み進めるまでもない。言いたいことなど嫌でも分かった。
 彼女の前脳──前頭葉に黒いモヤがかかっている。

「記憶組織が脳細胞ごと収縮しています。今はほんの数ミリ程度の縮小ですが、悪化してしまえば契約の解除も──」

 そう言って、彼女は手元のクリップボードに目線を落とした。マーチャンは背もたれをぎぃぎぃと揺すりながら、無言を貫いている。俺はぼんやりと蛍光灯を見上げることしか出来なかった。

「頭を打ったからですか? 治療の余地はあるんですか?」
「それが……おかしくて。神経系へのダメージならば打突による障害と診断出来るのですが。収縮となると精神的なショックが関係してると思われまして」
「精神的なショック、ですか」
「えぇ、おそらく原因はこの子自身にあるのかと。かなり強いストレスが掛かっていると思われるので、それを取り除かないわけには手の施しようがないですね」
「ストレスの原因を特定できれば、改善の余地はある、と」
「えぇ、その見込みはあるかと。あくまでも推定の期間ですが猶予は3ヶ月です。しかし解離性健忘だった場合──その原因すらも忘れ去ってしまったら諦めてください。まぁ、そんなことはさせませんが。私も専門家にあたってみます」

 俺は隣に座るマーチャンの方を向いて、尋ねた。

「何か、心当たりはある?」
「と、急に言われましても。なんでしょう分かりません」
「どんなに些細なことでも良いからさ。俺に対する不満でもなんでも、遠慮なく言ってよ」
「いえ、マーチャンは元気です」

 彼女は両手で作ったピースを口元にくっつけて、カクリと首を傾げてみせた。人差し指と中指が折れている。目も、心なしか座っているように見えた。
 母親としての彼女は耐えかねたように切り出した。

「マーチャンさんと共に原因を探ってみてはいかがでしょうか? 一時的に長期休暇を取る形にはなりますが……致し方ないでしょう」
「嫌です。せっかく成果を残せたのに、ここでマーチャンが止まってしまったら、全てにおいて意味がなくなるのです。怪我だけ治してさっさと復帰します」
「ダメだ。休養に専念しよう」
「マーチャンは嫌だと言いました。トレーナーさんなら、その意味を分かってくれると思うのです」
「分かってるよ。痛いほど分かってる。けど世間が君を覚えていたとしても、君が世間を忘れてしまったら、それは『生きている』と言えるの? “マスコット”と“人形”の違いを履き違えるな」
「なら……どうしろと言うのですか。せっかく“神速マイラー”の称号を貰えたのに。まぁ、トレーナーさんは理解できないですよね。1着を獲っても取材されなかったウマ娘の気持ちなんて」

 マーチャンはぐっ、と溜飲を下げてからそう言った。その薄緑色の瞳が、細かく震えている。
 
「何言ってんだ、負けただろ?」
「あれ? 確かに負けましたね?」
「やっぱりまだ曖昧じゃないか」
「いえ、これは事故直後のショックです、多分」
「自分で言うなよ……。あのな……なにも意地悪で言ってるんじゃないんだよ」
「むむむ」

 地面に目を伏せて、彼女は訊いた。

「……全部治したら、また走らせてくれますか?」
「うん、約束するよ」

 目標は2ヶ月。
 怪我の完治までに脳の病気も治すと決めた。

 

      ‪✝︎

 

 12月2日。授業を受けるために、トレセン学園の廊下を車椅子で進む。俺が彼女の脚になる。すれ違いざまに生徒から視線を貰うけれど、珍しいことではない。目が合えば察したように逸らされる。
 休養を発表してもメディアは大して食いつかなかった。新聞も隅に記載される程度。むしろ、称号を逃したことについて言及されていたように思う。理由は自明だった。

有馬記念インパクトには勝てないですね。記事的に」
「時期が悪かったか」
「まぁ、ある意味幸運でしたけども。マイル路線最後のG1を走れたわけですから」
「そんなこと言うなって、また来年頑張るぞ」
「はい。そのために先ずは勉学に励むのです。進級できなきゃ、意味ないので」
「頑張れよ。教室は忘れてないか?」
「……ばかにしたらダメなのです」
「冗談だって」

 到着すると見慣れた2人がマーチャンを出迎えた。

「おっ、マーチャンじゃねぇか?!生きてたか?」
「あんた生きてたって……いきなり失礼ね」
「仕方ねぇーだろ? 心配だったんだからよー」

 ウオッカダイワスカーレットだ。友達でもあり、ジュニア期からのライバルでもある。

「おやや。お二人とも。どうやらご心配をおかけしたようですね。でも大丈夫。マーチャンは灰になるまで何度でも復活するので」
「ヴァンパイアみてーだな」
「そうじゃないでしょアンタ?!」
「冗談だっての。わりーわりー」

 頭と脚に巻かれた包帯を見れば、笑い事とは受け取れない。車椅子ならば尚さら、誰であろうと。スカーレットが恐る恐る尋ねた。

「……その怪我、いつ治る予定なの?」
「そうですね。全治2ヶ月とは言われました。それと──」

 俺はマーチャンの肩を叩いて、止めさせた。振り返った彼女は頭を指さしながら言う。

「コレ、言わないで良いのです?」
「うん。今は」

 2人の頭上にクエスチョンマークが浮かんでいる。それが最善。学内に噂が広まれば動きにくい。

「まぁ聞こうとはしねぇけど、ムリはすんなよ。おまえ危なっかしーもんな」
「はい。ありがとうございます」

 形式以上の挨拶は終わり。他にも言いたい事はあっだろうけど、スカーレットは「惜しかったわね」とだけ労って俺と手元を交代した。
 次は彼女らが脚になる。教室移動も心配いらず。くしゃりと笑ってできた包帯のシワを見て、俺も笑顔を綻ばせた。
 送り届けた後は事務に戻る。やはりレースから一時的に退いた恩恵は、はっきりと実感できていた。時間がある。トレーナー室の電話ベルが、今では閑古鳥を鳴かせていた。
 俺はコーヒーを片手に考える。具体的な案を練れ。ストレスの原因を見つけ出せ。1つ分かったのは、少なくとも交友関係ではないこと。情報が少ない。とりあえず、今は様子を見る必要がある。
 放課後にトレーナー室の扉を叩いたのは、マーチャンとその友達だった。俺が出迎えようと、コートを羽織った矢先のことだ。入室した彼女は言う。

「こんにちは」
「おっ。やっほ」
「それで、どうしましょう。私は何をすれば良いのでしょう。治すためならば何でも頑張ります」
「んー……色々と考えてみたんだけどさ。とりあえず今は、休もう」
「はて? なにゆえに? 間に合いませんよ」
「正確に言えば『普段通りに過ごそう』ってことだ。ストレスかかってるなら、ゆったりするのも悪くないと思うんだ。なによりマーチャン自身が分からないんだし、リラックスしながら原因を探っていこうよ」
「……一理あるかもしれませんが。いつも通りということは……トレーニング?」
「まさか。いつも放課後は俺といるんだからさ、それだけで良いよ。この部屋に居てくれれば良い」
「ほう。なんだか休日みたいなのです」
「そうそう、そんな感じ。そうだな、小説でも読む? おススメがあるんだ」

 俺はレースの資料ファイルをかき分けて、本棚からノベル小説を引き抜いた。

「どんなでしょう?」
「『LOVEだっち』の小説版」
「そういうの、読むんですね」
「友人からの薦めだよ。意外と面白くてさ」
「やっぱりトレーナーさんは変な人です。まぁ、読みますけど」
「えぇ……」

 と、言われるのも無理はない。その作品は、いわゆる尻尾ハグの描写に定評があるからである。ラブコメというやつだ。(トレーナー×ウマ娘)の恋愛物語はいつの時代も需要に満ちている。
 マーチャンも青い女の子。未来に春が控えている。感想をぽつりぽつりと呟いていたけれど、いつしか無言になった。コーヒーマシンのトリップ音だけが部屋を満たす。俺はミルクを足して彼女に一杯を差し入れた。
 ありがとうございます。マーチャンは授業終わりに本を読んで、コーヒーを飲んで、帰る。俺はweb漫画を更新したり、事務をこなしたりしてから見送る。
 2人して、そんな幼馴染の休日みたいな放課後を繰り返すようになった。まぁ、窓が隣合わせで、ベニヤ板を使って部屋を行き来するようなことはないけれど。俺は彼女を寮へ送り届ける時間が好きだった。板で繋がれた数メートルをコンクリートタイル数100メートルまで延長する価値があった。
 4日に1度。読み終えたら次の巻。読むペースが全くもって落ちなかったから、面白かったのだと思う。2週間後には最新刊に追いついた。
 特に焦ってはいない。マーチャンには安らぎが必要だ。俺はそう考えていた。その頃には病状改善への道筋も立てていた。彼女の意思を尊重する。最後のページに栞の紐を挟んだ彼女が言った。

「少し出かけたいのです」
「いいよ。どこに?」
「それは〜……。1巻の第4章を参照です」

 タイトルは向き合う2人。確か、商店街へ行っていたはずだ。まだ付き合ってない2人がクリスマスプレゼントを選ぶ回だ。って、そうか。

「もうそんな時期か」
「そうです。もうそんな時期なんです」
「忘れてたわけじゃないけど、なんかね」
「はい。3年間、レースに囚われ過ぎてました。走ることばっかりで、まるでイベントを楽しんでいませんでした。ということで、失った時を取り戻すのです」
「うん。いいね。行こう」

 門限は19時。3時間ほど猶予がある。ギャラリーに囲まれることを加味しても、選ぶ時間は十分に確保できるだろう。俺はマーチャンにコートを羽織らせて、車椅子の手押しハンドルを握りしめた。

「では、れっつごーなのです」

 振り向いて、意気込んだ。その横顔に一塗りの紅を刺す。

 

 雪の色をしたホールケーキに、8つの赤い蕾が浮いている。たっぷりと乗せられた生クリーム。ガラスケースの向こうから、こちらをじっと見つめている。
 個人商店の強みだ。予約する客も居れば、買い付ける親子もいる。地域の者は、毎年その店でクリスマスケーキを購入しているのだろうか? 俺はそんなことを考えた。
 ジングルベルに出迎えられながら、アーケード街を道なりに進む。行き交う者は皆、例外なく笑顔に包まれていた。ここもまた、然り。

「新鮮な空気、むふふ」
「久しぶりだなー」

 学園の外に出るのは、敗北を喫したあの日以降のことだった。メディア露出でもある。俺達は囲いにファンサービス、突撃取材まで覚悟していた。でも──。

「なぜでしょう、全くもって声をかけられないのは。『大怪我のアストンマーチャン、その今に迫る』なんて、良いネタになると思うのですが」
「ほんと、なんでだろう。まぁ、ゆっくり選べて良いじゃん。今日くらいはさ」

 道すがらファンの方々から心配を貰うことはチラホラあった。それでも、想定よりはずっと少ない。
 
「複雑です。やっぱり有馬記念ですよね、勝てません。……マーチャンは賞味期限が近いのでしょうか? いつか忘れ去られてしまうのでしょうか?」
「そんなことないよ……。そのためにマイル路線で頑張ってきたんだろ?」

 途端に、マーチャンが両手で頭を抑え込んだ。

「痛ッ……」
「……! 大丈夫か?!」
「……少し。気になる程でもないかなと」
「明日医者に診てもらおう。無理はダメだよ」
「はい。何かあればすぐに言いますから」
「うん。それで、何買いに来たんだっけ?」
「えーっと──」

 むむむ、と逡巡。
 首を傾げて、溢した。

「あれ? なんでしたっけ? あれほど買いたいものがあったのに忘れてしまいました。なんだか変な感じです」

 初めて症状の顕れた瞬間だった。

「いや……なんでそんなに冷静なんだよ」
「なんででしょう。なんと言うか、ふわふわします」
「ふわふわ?」
「……でもさっき、ふと思ったんですよね。“忘れられたこと”すら記憶できなければ、私も楽なのかなって。いや冗談ですけど」

 身も蓋もない。その声が微かに揺れている。俺は暫く補えないままでいた。ぼんやりとした肯定ばかりが降り積もる。

「そんなこと……言うなよ。できるはずだって」
「むむ。悲しませてしまいましたか?」
「まぁ……。力不足を痛感するよ」
「そんなことは無いのです。トレーナーさんは出来る人です、まぁ変な人でもありますけど。そうですね、最近は毎日が『楽しい』ですし。新たなストレスも感じてません。助かってます」

 少し黙って、彼女は続けた。

「むしろ力不足は私の方です。私自身がストレスの原因が特定できてないのですから。それが分かれば、話は早いのに」
「そんなことは──」
「『──ないよ』ですか? そうです。そうやってフォローする気持ち、よく理解できます。ですから自己嫌悪は無しにしましょう。互いにベストを尽くしています。あくまでも“感覚的に”ですけど治っている気もしています」

 振り返って、笑いながら、紡ぐ。

「気を落とさないで下さい。買いたいものを忘れてしまったのなら、今からそれを決めましょう。それで良いのです。時間はあります」
「ありがとう」
「いいえ」

 グリップを握る両手から力がスルリと抜けていく。進むペースが少しだけ緩まったように思う。
 それからは商店街を往復して、デートってやつをした。ケーキを買って帰ろうか。マーチャンがプレゼントを決めたのは、18時半のことだった。
 ウールの白手袋だ。手の甲に黒いハート。2人でくっつけて完成する。買ったのは、その1つだけ。

「欲しいものと贈りたい物は沢山ありましたけど、両立できる案を思いつきました。マーチャンは天才なので」

 右手は彼女、左手は俺。片手ずつ分けあった。わざとらしく背もたれに寄りかかった彼女が切り出した。

「小説だと、この後はどうなるか知ってますよね」
「告白してたっけ」
「そうです。マーチャンも真似して良いですか?」
「ダメって言っても言うじゃん」
「よくわかってますね。でも、この“好き”は違います。私たちはトレーナーと担当の関係ですから」
「うん」
「恋人には、なれません。多くも望みません。だからせめて、契約の更新くらいは願っても良いと思うのです。私のトレーナーであり続けてください。来年も、その先も」
「当たり前だろ」
「ありがとうございます」

 彼女が「そして」と続けた。

「証明して下さい。肌身離さず持っていますから。もしもマーチャンが全てを忘れ去って、トレーナーさんのことすらも分からなくなってしまったら。その手袋で私の右手を握って下さい。多分、思い出せるはずです」
「忘れさせるもんか」

 俺は手袋に指を通す。余った右手で彼女の左手を包み込む。手のひらの熱が肌の隙間を貼り合わせた。柔らかくて小さい。それでいて、臆病。

「怖いです」
「いや、治す」
「意地っ張り」
「だろうな」

 少しだけ、うわずった。諦めるなよ。ギュッと握りしめる。ピシリと研ぎ澄まされた空気の中で、そこだけが静かな熱を持っていた。

 

 

2.【追憶】

 12月27日。約1ヶ月間で進展したことは2つ。
 1つは脚の怪我が完治に向かっていること。松葉杖を使えば、マーチャンも自らの意思で移動できるようになった。
 もう1つは、記憶消失の原因を推定できたことだ。どうやらマーチャンは、他人の記憶から振り落とされることを、以前よりも極端に恐れているようなのだ。シニア期だから焦っていたのだろうか?
 先日の自白に結論が詰まっていた。忘れられたこと自体を忘れようとしている。ならば、このマスコットを宣伝しなければ。それが特効薬になる筈。そう考えられる。それは長期記憶の確認及びリハビリも兼ねている。
 インパクトを与えよう、なるべく多くの人に。まずはクラスメイトからだ。期末テストで総合得点1位を獲る。それが俺なりに捻り出した答えだった。

「できそう?」
「……頑張りますけども」
「つらいか」
「いえ。プリティーマーチャンは、同時にジーニアスでなければならないので。やりましょうとも」

 有馬記念を終えれば学年末のテストがやってくる。マーチャンが読んでいた小説は、教科書に代わられる。
 手応えは良好。そもそも彼女は自習に励む学生だから。それは授業中であろうと、惰眠にふけることもない。指導に苦労しなかった。それでも、成績は上の中くらい。

「どう頑張っても、ケアレスミスが減りませんでした」
「君らしいな」
 
 あとは詰めるだけ。今ならば平均して90点以上を望めるだろう。仕上がっている。ゆとりもある。
 あったからこそ、彼女はTVをつけてソファに身を投げた。

「息抜きは大切です」
「ほらダラけないー」
「仕方ないことなのです」
「はいはい」
「ということで有馬記念の放送を観ましょう、一緒に」
「良いけど、終わったらすぐ再開するぞ」
「もちろんなのです」

 1番人気はウオッカ。その2つ下にダイワスカーレットが並んでいる。いずれもマイルでしのぎを削ったライバル達。
 その後マーチャンは短距離へ、2人は長距離へ。

「気になるか」
「はい」
「勝つなら、どっちが先にゴールラインを割ると思う?」
「……難しいです。強いて言うならウオッカですかね。まぁ、勝つのはN番人気のアストンマーチャンなんですけど。どやや」
「ん?」
「いやはや。あまりにもボケが雑でした」
「いつか出たいってこと?」
「よくわかりましたね。凄いです。変な者同士、気が合いますね。さすが」
「どーも」
「やっぱり短距離マイル路線よりも、中・長距離路線の方が世間的な評価は高いです。見栄えますし。その中の最高峰ですよ。最高峰。有馬記念で勝てたら、トレーナーさんはもっと褒めてくれますよね?」
「当然。でも、厳しいだろうね」
「……はて?」
「脚質、適正距離ってのは産まれ持った才能だから」
「やってみなければ分からないのです」
「それはそうだけど、それなら勝つ可能性のあるレースを獲っていく方が堅いかな」
「弱気ですね」
「違うよ。G1であれば1着に価値が出るし、知名度も上がる。確実に積み重ねよう。“忘れられないウマ娘”になるなら、そっちの方が賢明だと思うんだ」
「そうですけど──」

 彼女は続きを振り払って、ソファに顔を突っ伏した。TVには目もくれず。
 違和感を覚えたのは、それから直ぐのことだった。ゴリゴリと骨を削るような音が、レースの実況を濁らせたのだ。終盤に進むにつれて、違和感が大きくなった。
 その正体は、すぐに分かった。それはマーチャンの王冠が、頭皮に擦り付けられている音だった。

「どうした?」
「痛いです……頭が……。割れそうで……す……ッぅァ!」

 俺が王冠を跳ね除けると、彼女は両手で頭を掻きむしる。爪先に詰まった白い塊は、前頭部の皮膚だった。

「え、は、え?」
「はやく」
「あ────」

 俺はスマホを起動する。画面を上に向けてスライドしてロックを解く。電話のアイコンを人差し指でタップする。瞳に涙を溜めながら、彼女は振り絞った。

「助けて下さい助けて下さい。嫌です。忘れたくないです。置いていかれたくないです。なんで、なんで」

 過去に1度も聞いたことがないくらい怯えた声だった。119。番号を押す人差し指も、震えていた。
 1着に輝いたのは緋色の女王。それはソファに染みついた斑点と同じ色をしていた。

 

 マーチャンの母親にされた説明は俺達の1ヶ月を無に還す。

「病期の進行が止まってません。本当にマズイですね。検査のため2、3日ほど入院ましょうか」
「嘘だろ……」
「と言いますか、急速に進んだみたいです。その急激な脳血管の圧迫が、頭痛を引き起こしたみたいでして。しかし悪いことばかりでもないです。予測されていた喪失日が3ヶ月と変わっていないあたり、それまでの対策は効果があったようですね」
「そう、そうですか……。ならなんで……」
「確か『忘れられることを極度に怖がっている』んでしたよね? で、それがストレスの原因になってると」
「はい」

 彼女は「恐らく」と付け加えた。

「娘にとって半分は正解で、半分は不正解なのでしょう。そして今日、トレーナーさんは地雷を踏み抜いてしまった。完答の鍵となる“何か”に触れた。そんなところでしょうか。予想の域を出ませんけれどもね」
「それはつまり、あと2ヶ月も放置すれば治らないと」
「そうなりますね。まぁ、医療的なタイムリミットは目安にしかなりませんが。私は仕事で手一杯なので、治療の方は本当に……頼みますよ。一応、私なりに専門家たちの意見を集めたので、効く薬なら出せると思いますから」
 
 呑気に構えているつもりはなかった。素人の判断ながらも100点中の50点を出せたのだ。十分であろう。もっとも、及第点には届いてないが。

「海外にも視野を広げた方が良いのでしょうか?」
「……きっとセカンドオピニオンでも、同じような答えでしょう。望むのであれば紹介状を書きますが、正直なところ、薦められません」
「一体どうしろと……」
「今は継続しかありません。期限を遅延させましょう。効果は顕れていますから、堅実に頑張りましょう」
「ありがとうございます」
「それと、これからは定期的に通院してください」
「わかりました」

 マーチャンは待合室にいた。以前のように頭を包帯を巻いて、ソファに座っている。唇をキュッと一文字に結んだのは、入院の旨を聞いたからだった。

「お母さんは何と言っていましたか? トレーナーさんとは、もう会えないんですか?」
「そんなことないよ。2、3日で退院できるらしいし。毎日様子見に来るからさ」
「……絶対に、約束ですよ? 破ったら……どうしましょう。そうですね、LOVEだっちの新刊は私から読ませて貰いますからね」
「あぁ、約束だ」

 指切りげんまん嘘ついたら──針は飲ませんけどマーチャンのお願いは聞いて下さいね。ミミを弱らせて溢していた。


      †


 それから2日間は変化なし。仕事を早めに切り上げて病院へ向かう。理由は、まぁ普段よりもトレーナー室が寒かったから。
 自動販売機の缶コーヒーで手を暖める。病院の手前でカフェラテを買って、マーチャンに渡す。あの部屋で淹れる1杯よりかは劣るけれども。

「俺のやつを飲みたいって?」
「はい。きっとぬるくなっているでしょうから。暖かいのを飲めば、帰りもポカポカなのです」
「ほとんど飲み終わってるし、ブラックだよ」
「それで良いのです」

 なんの変哲も無かった。油断していた。どうせ問題なく退院して、直ぐにでも対策を練るのだろうと俺は思っていた。3日目までは。
 ノックをしてから入室する。マーチャンは壁を背にして、ベッドに座っていた。頬に人差し指を刺して尋ねる。

「あの、この手袋のことなんですが、左手の行方って、知ってますか?」

 信じたく、無かったさ。

「おーい、おーい? ふむ……」
「本当に何も覚えてないのか?」

 迷った。答え合わせをすれば彼女は壊れかねないだろうと思った。俺は鞄に伸ばした左手を引っ込める。
 ──証明して下さい。肌身離さず持っていますから。
 あぁ。
 思い出さずに居られたらどれほど幸せだったことだろう。

「なんで……トレーナーさんが持っているんですか……?」
「これでも、思い出せない?」

 俺は左手に着けて、クリスマスの日にした約束を遂行する。あの日に繋いだ右手よりも、ずっと小さい気がした。
 失くした理由なんて、彼女ならば幾らでも想像できたことだろう。『トレーナー室に忘れてた』とか『落とし物で届いた』とか。その過程をスキップしてまで声を震わせたのは、理解したからに違いなかった。

「もう……私、また、なにかを」
「いや、良いんだ」

 彼女は閉じ込めるようにグッと、喉仏に蓋を落とした。ごめんなさい。その声が、引っかかる。

「神様は理不尽なのですね。本当に、もう、何故でしょうか、感情だけは残っているんです。そう、絶対に忘れてはいけないこと。それだけは分かる、分かるのに……」
「忘れてしまったんだね」
「──ッ」

 包帯を涙で滲ませるには、十分なセリフだった。
 残酷だ。大人げない。伝えない選択肢もあった。それでも選ばなかったのは、俺が希望を求めたからだった。思い出してくれるかも、って。夢に散る。

「これはね、最後の砦だったんだよ。君が俺のことすらも忘れてしまった時の。まだ、俺の名前は覚えてる?」
「忘れるわけがないですよ──」

 違かった、口にされた名前は。限界だった。まばたきをしたら頬を伝いそうだった。ダメだ。耐えろ。

「うん。そう、合ってる」

 我ながら随分と脆い嘘だなと思った。そういう心の揺らぎって、勝手に伝播するんだ。してしまうんだ。

「ぃっ、あっ、そッ、そう──ですよね」

 笑顔で涙を溢していた。俺も、目尻に熱い膨らみを感じていた。人差し指の綿繊維をジワリと灰色に濡らすのだ。


 
 退院できるワケがなかった。入院にアイドル活動の停止。それらは全て、無期限となって跳ね返った。変わらないことは1つ。マーチャンの命日──記憶が消えるまでの猶予だけだ。

「頑張ろうな」
「はい」

 治療に専念する。存在感をアピールする。俺はweb漫画の制作やマーチャン人形の普及に力を入れる。1日1本投稿。CMの依頼。限りを尽くす。
 結果から言えば、空っきしだった。アクセス数は伸びないどころか減少した。オファーは、そもそも通らなかった。
 テストも悲惨の一言に尽きる。オンラインで配慮されたものの。順位なんて、張り出された表を見るまでもない。染み込ませた知識は、髪の毛のように抜け落ちていた。テストでも1番なんだから。スカーレットが逃げ切った。

「わたし、ダメダメですね」
「マーチャンのせいじゃない。仕方ないことなんだよ……本当に……」

 人が笑顔を失う場面は多々ある。俺達の場合は日常に合致した。笑うことが著しく減った。というか、消失した。余裕が無かったと言えば、それまでだが。

「なぁ、これ、読む?」

 俺は薄いフィルムに覆われたままのLOVEだっちを手渡した。新刊だ。
 剥がされることなく、返された。

「それなら初めから読みたいです」
「そっか。ごめんね」

 1巻と交換する。彼女は疑うこともなく黙々と読み進めた。
 2巻の出番はない。病室を尋ねると初めの見開きを開くのだ。第1章〈すれ違う2人〉。しおりの赤い紐がボロボロに解れていた。
 遂にその時はやってくる。俺は、多分もう止まらないと思っていたし、腹も括っていた。
 断じて諦めたワケではない。でも、なんと言うか。日々会話に疑問符が増える現実を、俺は直視できなかった。薬でリミットを遅らせていれば、ある日フッと治るかな、なんて考えていた。甘かった。
 
「あの、どちら様でしょうか?」

 怪我の完治と共に“アストンマーチャン”は死亡した。食欲、睡眠欲、排泄欲。まるで機械のように、3代欲求を繰り返すようになった。

「君のトレーナーだったヒトだよ」

 何度伝えたことか。いつからか数えることもやめた。口数も減った。そっか他人だもんな。マーチャンは窓の外をボーッと眺めるだけになった。

「申し訳ありません、お母様……。本当に、本当に」
「いえ、最善を尽くしてくれたと思っています。私よりもトレーナーさんの方が、娘の3年間については詳しいと思うので。きっと私が治療にあたっても、手の付けようがありませんでしたから。母親として情けないですが」
「……いえ」

 カルテのクリップを何度もぱちんと弾きながら、彼女はそう言った。
 ──あなたをトレーナーとして付けなければ良かった。
 そう言わないのは、せめてもの温情なのだろうか。俺が焦らなかったから。甘えていたから。俺は……無力だ。

「ごめんな、マーチャン──」

 黙りこくる彼女は、マスコットよりも静かだった。バキバキに壊れたレンズで遠く空の果てを見つめている。空一面を埋め尽くす雲は、埃のような灰色を帯びていた。
 想定された期限よりもずっと早く、マーチャンは記憶を失った。
 そして、脳を再起動するための眠りについた。深く、深く。それはまるで白雪姫のように、白馬の王子からキスを求めているかのように。

 

3.【New Deal】

 窓を通り抜けた陽の光に当てられて、俺は覚醒する。ベッドにもたれていた上半身をゆっくりと持ち上げる。かけた覚えのない毛布が、リノリウムの床にハラリ、落ちる。随分と長い夢を見ていたように思う。
 サラサラと、白いリースのカーテンが棚上のアネモネを撫でている。ガラスコップの花瓶を通り抜けた光のモヤが、白く透き通って木目を泳ぐ。赤の花びらと白地のコントラスト。ヒラヒラと舞い落ちるさまは絵画のようだった。病室を吹き抜ける風が、耳元でゆったりと春を告げる。
 俺は1つくしゃみをした。それは室温のせいなのか、花が発する微粉のせいなのか。ずるずると鼻をすするばかりでは、とんと判断がつかない。

「おい、ここで間違いないのか? 何号室だ?」

 窓の下からマスコミの声が聞こえる。そのはずだ。本来ならば、怪我の完治とともに俺の担当バは復帰していたはずだったから。良いネタになる。

「────ッん──」

 寝返りを打ったのはマーチャンだ。覗き込むと、彼女はパチリと目を開いた。寝たきりで凝り固まった筋肉は身体をベッドに縛りつける。首だけは僅かに動くらしい。彼女は白い壁で囲まれた空間をキョロキョロと見回した。インクが切れかけたボールペンのような声で俺に訊く。

「あなたはか──?」

 必要な情報は断片的に与える。俺がトレーナーであること。君は記憶を失っていること。担当医が母親であること。混乱しないよう順々に。
 彼女は釈然としない表情のままカレンダーに目を配った。
 1月15日。想定されたタイムリミットの日に一致していた。本人は知る由もないことだ。押し寄せる情報の荒波を理解しようと必死、といったところか。ナースコールに呼び出された母親が言う。

「さて、どうなりますかね……」
「本当に……吉と出るか凶と出るか」

 俺は医療ベッド用テーブルの上に例の小説を置いた。一巻だけ。しおりを外してから手渡す。

「これを読んでみて欲しいんだ」
「……? はい」

 脳のパッチテストをする。本の内容を数時間後に再確認する。結果次第で病名が正確になる。

 解離性健忘──1度記憶を喪失すると、それ以降も数時間ごとにリセットされる。詰み。
 解離性遁走──赤子のような状態。過去は覚えていないが、新たな記憶を保持できる。

 マーチャンが内容を忘れていれば前者、覚えていれば後者にあたる。
 第1章を読むのに1時間もかからない。昼を少し過ぎたくらいに検証は始まった。怖かったから、質問役は委ねた。

「主人公とヒロインの2人は何をしていたか覚えている? 話の構成をザックリとで構わないから教えてちょうだい」
「えぇと。確か、幼馴染の2人が学祭の借り物競争で恋人のフリをするところから物語が始まりました。でもヒロインの娘にはフィアンセがいて、主人公は表立っての交際ができない。結果、スパイのようにコソコソと付き合うことを決めたところでその章は終わりました。そうですね、そのすれ違いが特に面白かったです」
「そう! あぁ、良かった……」

 完璧に一致した。解離性遁走であることが確定。病室に張り詰めていた空気がフッとゆるまった。

「とはいえ混乱しているわよね。詳しいことはまた後日。とりあえず簡潔に、これからの方向性について説明しようかしら」
「ふむ?」
「マーチャン。自分の将来を決められる?」
「……少し待ってくださいよ。あまりにも急過ぎます。追いつけませんし、よく分かりません。どういうことでしょう」
「難しい?」
「いや……というかそもそも、私は何者なんですか? 何のために産まれてきたんですか?」
「そう自暴自棄にならないで。落ち着いて。今は辛いかもしれないけど、それも含めて説明するから」

 2人とも大きく深呼吸をして続けた。最も辛いのは、母親である彼女のはずなのに。

「基本的に遁走型となると、分けられる未来は2つだけ」
「……はい」
「『過去の自分を取り戻す』か『新たな人生を歩むか』のね。まぁ、圧倒的に後者が多いのだけれど」
「思い出せるんですか?」

 お母さまはカルテをめくって、報告書らしき書類に目を通した。ザッと目を通してから返した。

「望みはあるけれど、可能性は希薄……。過去にも、片手で数える程度の例しかないのよ。まぁ無いよりはマシね」
「そうですか……」

 やはり本人のキャパシティなど、とうに超えているようだった。

「あの、やっぱり分からないです。そんな急に判断しろと言われても出来そうににありません。ごめんなさい」
「そうよね、ごめんなさい。無論、今すぐに答えを出す必要はなくて。私としても焦ってはいないから、よく考えて決断して欲しいの」
「……はい」

 その後に薬の説明をされたけれど、内容はよく覚えていない。残っていたのは葛藤だけ。尊重されるべき選択は彼女の意思である一方で、俺の意思もまた、鬩ぐ。
 俺とマーチャンの2人だけになった空間で、彼女は恐る恐る尋ねた。

「あの……お名前を伺っても宜しいでしょうか? なんとお呼びすれば良いのか……」
「あぁいや『トレーナー』で良いよ」

 彼女の両ミミが上下にピクリと揺れる。トレーナー。その言葉に反応していることは明らかだった。彼女は、まだ整わない声で謝った。

「ごめんなさい。トレーナーさんだったのですね。私、本当に何も覚えていなくて」
「うん、分かってる。大丈夫」

 あぁ、その声がまったく別人のものであって、聞くたびに“アストンマーチャン”を思い出さずにいられたのなら。

「あの、悲しませてしまいましたか?」
「いいや」
「そうですか。でも、そうには到底見えません」
「大丈夫」
「私のトレーナーさんは意固地なのですね。そして同時に、過去の私のことが大好きで仕方なかった。きっと、そうだったのでしょう」

 ふと顔を上げると意地悪に笑う彼女がいた。核心をつく。

「あなたとしては過去の私に戻って欲しい。新たな人生を歩まずに、思い出して欲しい。顔にそう書いてあります」
「……ほんと、敵わないや」
「いいんです。私が逆の立場だったら同じことを考える筈ですから」
「うん」
「しかしそうやって戻るかも、ましてや何年かかるかも分からないような可能性に時間を費やすのは勿体無い。そう考える私だって居ます」
「だよな。そりゃそうだ」

 彼女は「ですから」と繋いだ。

「一緒にスパイごっこをしましょう。そう、第1章のように。判断するのは、そうしてからでも遅くなさそうなので」
「……?」
「いやはや。あまりにもボケが雑でした。まぁつまり、過去の自分を知ってから判断しようということです」

 ボケが雑でした。その言い回しは2回目だなと思った。

「──覚えてるの?」
「何をでしょう?」
「いや、なんでもない」
「……はて。トレーナーさんは変な人ですね」
「その通り。覚えてるじゃん」
「……よく分かりません」
「ハッ。なんでもないよ。ごめんね」

 彼女の意思は尊重する。尊重するけれど、やはり望まずには居られないのさ。そうやってチラつかれると、尚のこと。

 

      ‪✝︎

 

 スパイごっこ。それは正体を隠す点において同様の意味を持っていた。
 マーチャンは大袈裟過ぎないサングラスとマスクも着ける。目立つけれど、車椅子は仕方ない。昏睡で筋力が落ちていたから。2人で揃えれば流石に怪しいので、俺はマスクだけ。

「さぁ、行きましょう。バレないように潜伏しながら進むのです」
「はいはい」

 ミッション①──記者に見つかるな。正面玄関には数人。裏口を使うことにした。成功。
 ミッション②──街に溶け込め。功績は嘘をつかなかった。「ねぇアストンマーチャンじゃない?」。失敗。

「まぁでも、メディアにバレなきゃセーフ。取材されたって答えられないし」
「はい、誤差です。②はサブターゲットです」

 メインタスクはクリア。目的地──トレセン学園に到着。マーチャンが己を知るならば、これほど適した場所はない。
 トレセンの地を踏んで、彼女は真っ先に「懐かしい気がする」と言った。身体に、心に、深く染みているとのことだ。

「教室の位置は?」
「……いえ」
「まぁ、そうだよな」

 夕焼け色を貼り付けた廊下に、窓サッシの黒い影が浮かんでいる。線路のように連なったその影に、俺は車椅子の車輪をひっかけた。太陽の傾きで1本に収束するレール。薄暗いその先に繋がっている。

「あれ?! マーチャンじゃんか、何でいるんだよ?! 元気か?!!」

 教室の闇から漏れ出したのは光だった。夕焼けに焦がされた教室の中で、窓際に座っていたのはウオッカだ。眩しくて、暖かい。友達とはそのような存在であって欲しいものである。俺は素直にそう思った。

「初めまして──では無さそうですね。こんばんは」
「おぉ……。やっぱ聞いた通りなのか……。記憶が無くなってるってのは。俺のこと覚えてないのか?」

 手持ちのスキットルを見せても、マーチャンは首を傾げるばかりだった。

テキーラさん?」
「うぉ……。マジか。ウオッカな。まぁ、よろしく頼むぜ」
「ふむ。惜しい。宜しくお願いします」
「その……ウオッカ……隠してごめんな」
「あー、良いって良いって。あれだろ? なんか考えてたんだろ、お前らのことだし」
「うん。無かったことにしようと思ったけど、ダメだった」
「おう。難しいことはわからねぇけど助けようとしてたんだろ?」
「あぁ」
「お前いい奴だなー」

 そう言ってくれるだけで、多少ながら救われる。ウオッカの舌は止まらない。

「ところで今何してんだ?」
「なんだろう。どこから説明すれば良いのやら。ざっくり言うと『スパイごっこ』」
「はぁ?」
「トレーナーさん、それじゃあ分かりませんよ……」
「あぁ……。いやなんというか『マーチャンが自分を知る』キャンペーン中とでも言えば良いのかな?」
「ほー。昔の自分を思い出してんのか。てことは記憶が戻る可能性があるってことか?」
「さぁね。担当医には殆ど可能性ないって言われたし、そもそもまだ“選んで”ないし」
「それでも、僅かな可能性に賭けてるのスゲェ熱いな。良いトレーナーを持ったなマーチャン。大切にしろよ」

 それはまるで──。

「逆にウオッカは何を?」
「まぁ、そうなるよな〜……そうだな」

 窓の外に顔を向けて、ぽつりぽつりと溢し始めた。

「ほら、アレ見ろよ」

 陽の沈みかけたターフに、人影が1つ。誰かなんて直ぐに分かった。

「スカーレットか」
「おう。ずっと走ってんだよアイツ。スゲーよな、マジで」
「追いかけないのか?」
「ハハッ。知ってると思うけど俺さ、有馬記念でアイツに負けちまってさ──」
「うん」
「アイツは何でもかんでも1番イチバン。そうやって越されてる内に、トレーナーから契約満了を言い渡されちまって」
「それは──いや……。でも立派だったよ。良い勝負だった」
「サンキュー。でも6着にそれはねーな。情けねぇけどよ」
「そんなことは……」
「いや、良いんだ。限界も感じてたし、これで負けたら終わろうって決めてたんだ。心のどっかではな。でも、なんつーか。いざ終わってみると、こう、辛ェな。相棒がいねえってのは」

 切り返したのはマーチャンだった。

「それで1人、感傷に浸っていた、と」
「バッ──、おまえ、言うなよ!」
「おいマーチャン──」

 俺の静止を振り切った。

ウオッカさんのその想いは、スキットルの錆になってしまったのですか?」

 ウオッカは両目をハッと見開いて、床に目を伏せた。行き場を失った視線は建材の木目へと分散する。

「……名残りかなんだか知らねーけど……お前って昔から詩人みてーなこと言うよな。俺、そういうのよく分からねーし、込められた意味だってわからねーけど──。なんで、こんな時だけ分かっちまうんだろうな」

 ガラスに写るオオカミ少女は、今にも割れてしまいそうな顔をしていた。銀色のアルミ容器に涙がポタリ、垂れる。夕暮れの朧雲は夜へ向かうように、一筋に伸びていた。
 
「やり直せないのですか?」

 苦しそうなウオッカの言葉を、俺が繋ぐ。

「あのな、シニア期までに一定の結果を残せなかったウマ娘は契約の満了として別れを告げられるんだ。スカーレットみたいな娘の方が少数派なんだよ。トレーナー業も遊びじゃない。俺たちも生きていくためには活躍させるしかない。伸びしろがある分、こちらとしてもジュニア期の娘を選ばざるを得ないんだよ」
「そうだったのですね……ごめんなさい」
「いやぁ、謝んなよ。なんかスッキリしたからよ。むしろサンキューな! マーチャンもまた一緒に走ろうぜ!」

 ウオッカはそう言って、ニコリと歪む。両目の隈は夕焼け空のように赤かった。

「なるほどな」

 俺は1つ、マーチャンから教わった概念を思い出した。それは医者の娘として産まれたゆえの、業。

『病院は、命が流れていく場所です。産まれて、流れて、海へ行きます。これは当たり前のことで、怖いことではありません』

 この概念はトレセン学園においても流転の本質として活きている。ただ1点を除いて。
 ──怖いことではありません。
 そんなワケあるか。さながら呪いだ。その呪詛が、マーチャンの記憶障害に影響を及ぼしているのなら? そう考えてしまう。
 
「スカーレットにも挨拶しなくて良いかったのか?」
「はい。何を話せば良いのか、分からなかったので」
「そっか。だよな。俺も」
「はい」
「……」
「……」
「『余計なこと言っちゃった』って思ってる?」
「はい」
「なら謝っておきな。LINEは繋がってるだろうし。にしても、あんなにグイグイ攻めるマーチャン初めて見たな」
「なんというか、他人事のように思えなくて。そうですね、あとで謝罪のメールを入れておきましょうか」
「固いな。友達なんだし、そこまで畏まらなくても大丈夫だって」
「ふむふむ。実感がなくて難しいです。でも、却って興味が湧いてきました、そのお人形さんに」
「うん。良いね」

 この日、マーチャンは学園のリアルを知った。
  
 


         ‪✝︎

 


 さて、コーヒーを飲むにしてもホットにするかアイスにするか。2月を迎えれば迷うことも多くなる。淹れ終えてから結論を出す。マーチャンはアイスカフェラテを所望した。
 彼女も時が経つにつれて、この環境にも馴れてきているといった様子だ。僅かながら会話に笑顔が混じるようになった。トレーナー室に、春の風がスルリと吹き抜ける。

「どうぞ。アイスで良かったの?」
「はい。ありがとうございます」

 この時期になると、メディアの粘着が減った。お出かけの機会は増えた。
 リハビリの日々は、まだ続く。手すりを掴んで震える脚で前に進む。
 不幸中の幸いと言うべきなのか、昏睡していた期間は1ヶ月で済んだのだ。ぶかぶかだった制服のストッキングも、履ける程度には回復した。走れはしない。
 自ずと病院に拘束される時間が増えたから、遠出は不可能だ。学園に通うことならばできる。トレーナー室まで歩けば、それもリハビリになる。

「やっぱり自分の脚で歩くっていうのは最高ですね」
「うん。このままいけば直ぐに回復しそうだね」

 18時までには病室に戻りたい。考慮すればここに滞在できる時間は1時間程度。出来る事は限られる。効率よく記憶を再現せねばならない。
 マウスパッドを動かすと、PC画面がスリープモードから目を覚ます。俺はパスワードを通過してモニターにメニューを表示させた。アイスコーヒーを片手に持ちながらソファに腰を預ける。
 マーチャンはファイルフォルダをクリックする。液晶全体に広がる4コマ漫画。アイスカフェラテをひと口飲んで、カーソルバーを下にスクロールした。

「なんと。私がいっぱい」
「3年間の日記みたいなものさ」

 全部でおよそ900話。web漫画にしては、随筆めいた構成となっている。

「何だか、変な感覚です。知らない私が物語を作っている」
「だろうね。まぁ、これで色々と分かるんじゃない?」
「はい。楽しみでもあります」

 出会いから近況まで日常が記録されている。まさか、こんなところで役に立つとは思わなかった。全話に目を通す時間はないから、基本的には読み流す。
 初めてカーソルが止まったのは、2年目の夏合宿──夜の海でのワンシーンだった。

「うわわ。なんです? これ?」
「それはね、同じ舟に乗せてくれたなって、初めて実感できた時のやつ」
「舟?」

 液晶を人差し指でなぞりながら、彼女は吹き出しのセリフを復唱する。

「『今日の私、昨日の私、世界中には映しきれない私を、トレーナーさんのレンズに映してくださいね』ですか」
「うん」
「『ちゃんと覚えていてくれたかは、ずーっと未来のトレーナーさんに聞きたいのです』ですと?」
「なんか懐かしいな。その響き」
「むむむむむむ。なんと恥ずかしいことでしょうか……。これじゃあプロポーズしているようなものじゃないですか」
「ね。嬉しかったけどなぁ」
「ふむ……なるほど。以前の私は貴方のことが大好きだったらしいです。そんな気がします」
「そっか」
「心臓が変に熱いのに、それでいて苦しくない。なんというか、そんな感情だけはボンヤリと残っているのですよね」
「不思議だな」
「はい。お互いに、好きで好きで仕方なかったんですね」

 カチリ。丸時計の長針が5の上に重なった。そんなことを知る由もない秒針は、忙しなく時を進めている。

「どう? 昔の自分は」
「なんというか『不思議ちゃん』ですね。銅像建てたり人形を作ったり。とても楽しそうでした。ウオッカさんやスカーレットさんも居ましたし。漫画の中の私はいつも笑っています」
「そうだね」
「いえ、今が楽しくないとか、そんなことはないのですが」
「分かってる。そう。過去の君はね、マスコットになりたがっていたんだ」
「そのようで。まぁ今となってはお人形さんというより、木偶の坊ですけれど」
「冗談でもそういうこと言わない」
「おっと。以後、気をつけます」

 木偶の坊。画面をスクロールすればするほど、その言葉が胸に深く突き刺さる。次にカーソルが止まったのは、タイトル〈お知らせ〉だ。崩れた薄黒い氷がコップの底をカラリと叩く。
 ゆいいつ真っ黒な1コマ目。そこに無機質な4文字が浮かんでいる。今まで読み進めた者なら、誰だって足を止めるであろうサムネイルだった。

「これは──?」

 11/20。阪神競馬場。芝1600メートル。マーチャンがマイルチャンピオンシップで敗れた日の記録だ。苦い記憶。その4コマにキャラクターは存在しない。ぎっしりと、細かな活字が詰め込まれているのみ。

ダイワスカーレットさんに敗れて怪我……ですか。しかも活動休止というと──」
「そう。ここで頭を打ってから、君は段々と記憶を失っていったんだ」
「唐突に忘れたわけではないのですね……」
「うん。別に隠してたわけじゃないけどね」
「それは……あんまりです。トレーナーさんは何で、そんなに平気でいられるのですか。壊れていくさまを見て」

 平気なわけあるか! 出そうになった言葉を、俺は喉の奥に押し込んだ。

「そりゃ悲しいよ……俺だって。でも己の無力さに打ちひしがれてたって、君は帰ってこない。だろ?」
「そうですけど……」

 マーチャンはブラウザを閉じて、アイスカフェラテを一気に飲み干した。唾液を、ゴクリと嚥下してから口を開く。
 
「私、決めました」
「ん?」
「お人形さんになろうと思います」
「えっ。それって」
「はい。お母様に言われた『将来』についてです」
「良いの?」
「はい。私思ったんです、愛されてるなって。お母さん、ウオッカさん、スカーレットさんにトレーナーさん。きっと、まだまだ居るのでしょう。知らないだけで。特にトレーナーさんなんて、いくら悲しかろうとこうやって付きっきりでいてくれるのですから」
「……うん。みんな待ってるハズだよ」
「えぇ、そうです。そんな慈しみに満ちた人生をリセットするなんて、あまりにも勿体ない。記憶が戻るかは分かりませんが──いや、どんなに無謀でも、絶対に思い出してみせます」

 声を張らせて、言い切った。

「頑張りましょうね」
「おう……ごめん……ありがとう」

 コツン。拳を交わす。俺の手首が負けるくらい彼女の拳は固かった。
 意思の顕れなのだろう。かつての君に戻って欲しい。俺の勝手な希望が凝縮されている。
 この日初めて、マーチャンは大怪我の件を知った。自らが受けていた愛の大きさを知って、覚悟も決めた。病院へ持ち帰るには充分過ぎる成果だった。
 担当医曰く、それは母として喜ばしい判断であるという。その一方で、状況を難化させる要因でもあった。
 
「トレーナーさん、心して聞いてください」

 前置きを据えてから、マーチャンのお母さんは言った。

「娘は以前よりも繊細な容態でして。治療をするにあたって以前よりも慎重さを要求されるのですが、出来ますか?」
「詳しくお願いしたいです」
シナプス細胞が──なんて言ったところで仕方ないので分かりやすく言いますが。これ以上、娘にショックを与えないように立ち回ってほしくて」

 彼女曰く、今のマーチャンは砂の城のような状態だと言う。そういった説明を受けた。いっけん城に見えても、波が僅かに伸びるだけで、崩れ落ちる。マーチャンに過剰なストレスを与えれば、遁走が再発するかもしれない、と。

「荒療治は諸刃の剣なんです。仮にそのショックが回復の鍵だとしても、強過ぎるがあまりに……また吹っ飛ばしてしまう可能性だってあるんです」
「はい」
「本当に、本当に。ゆめゆめ気をつけてください。もう2度と娘から『あの、どなたですか』なんて──。そんな姿、見たくなかったんです」

 この人もまた、脆かった。いや──。

「俺のせいです、全部。本当に申し訳ありません」

 治せる人は貴方だけですから。本心か妥協か。あるいは、その両方か。

 

 


4.【向き合う2人】

 トレセン学園の生徒は2月の中旬から春休みを貰う。新学年に向けて整える期間だ。学業は一旦お休みして、レースに専念する。4月までに己の運命を決定する。
 シニア期を終えたウマ娘に与えられる選択肢は2つ。
 1つは大学進学。もう1つは現役続行。後者を選べば、等級を排除したフリーランスとしてレースを走れる。いわゆる企業のクラブチームみたいなモノだ。マルゼンスキーシンボリルドルフがその例にあたる。
 大抵のウマ娘は、ウオッカのように大学へ進学する。トレセン学園で走るほどの者である。地元のレース教室でコーチになるために、彼女らは資格を取る。実に合理的だ。
 マーチャンには特別措置が為された。理事長曰く、最終的に決めるのは4月以降でも良い。自由に過ごしてもらって構わないとのことだった。助かる。

 ──「思い出しましょう。新たな人生を始めるなんて勿体無いです」

 まぁ、軽い選択肢であろう。既に1度、人生の岐路に立たされた彼女にとっては。再契約の約束もしている。

「どうしましょうか」
「万策尽きてる感じはあるよね」

 やることは変わらないが、以前と違って猶予がある。「3か月」と宣告された時と比べれば、派手に動ける筈だった。ショックを与えない──その制約がなければ。
 トレーナー室と病院間の往復は継続する。俺が側にいる関係上、彼女は寮生活を送れない。 
 怪我自体が治っているからリハビリにはならない。もはや、カフェラテを飲みに来ていると言い換えても相違なかった。今日はホットを所望された。
 それでも油を売っているよりかは遥かにマシ。手持ち無沙汰な俺に、商い物を与えたのはマーチャンだ。

阪神競馬場へ行きましょう」
「どうした急に」

 商い物というよりは劇毒だった。それも飛びっきりの。これを売ってみろと? 無理がある。

「うーん。却下」
「なんと。せっかくの長期休みですし、レースにも出られませんし。──ね?」

 上目遣いに襲われる。しかし約束は約束だ。怪我をした場所に連れ出して、記憶を吹っ飛ばそうモノならば。
 そこはマイルチャンピオンシップの会場なのだ。ショックを与えるなと言われた手前、迂闊は出来ない。

「だーめ。東京競馬場は? 近いし」
「意味がないですよ。トレーナーさんだって、それくらいは分かっている筈です。それとも何か行けない理由でもあるのですか?」

 話を逸らさせるつもりは無いらしい。

「さぁね」
「むむ。ズルいですよ」

 ストレスを与えたくないとは言えど、本人が望んでいるのだから困る。

「聞きたい? 理由」
「はい」
「なんかね。過剰なストレスを与えるとマーチャンの記憶が消し飛びかねないんだってさ。俺自身、信じきれてない部分もあるけどね。行くのはダメだ」
「そんな……酷いです。仮に治ると言ったら、どうしますか?」
「その可能性もあるだろうけどリスクがデカ過ぎる」
「むむむむ。そうですか、そうですか。なら仕方ないですね」

 思えば彼女も、ブラウザを落としたあの日からweb漫画を読まなくなっていた。知る必要は無いです。そう一蹴して。
 多分、本能的に直感したのだと思う。ただ漠然とした過去でありながらも、同時に証拠となる答えを。あの競馬場にヒントがあるのだと。
 昼頃に病院へ顔を出すのが俺の日課だ。ある時お使いを頼まれて遅れた日があった。リュックサックを1つ。とびきり頑丈なやつでお願いします。
 1時間程度で買い終えたと思う。いつものように受け付けを通ろうとしたら、お母様に止められた。

「──え、居ない?」
「はい。叔父さんに会いに行くって。聞いてなかったんですか?」

 マーチャンの「仕方がない」は諦めを意味していなかった。トレーナーさんがその気なら「仕方がない」。
 強硬突破を意味していた。そういうことか。脱走しやがった、アイツ。

「あぁいえ、ここで落ち合う約束してたのに。気が変わったのかな。LINE見てなかったもので」
「今の娘にとっては初対面ですから、潤滑油になってあげて下さいね」
「あっ、は、はい」

 我ながら随分と滑らかな機転を効かせたモノである。咄嗟の返しとしては悪くなかった筈だ。
 ──って違うだろ。そこに油を差してどうしろと。売る油すら無駄に遣っては目も当てられない。
 俺はLINEを確認する。府中駅で待ってます。2番線ホーム。京王新宿線。02:39。通知を見て理解する。すぐさま病院を飛び出した。


 
 駅まで徒歩20分。猶予は10分。少し、走った。商店街を抜けて改札を抜けて──階段の方が早い。まだ間に合う。
 あのバカはすぐに見つかった。キャリーケースを横に添えて、待合室で座って待っていた。もう何本乗り過ごしたか分からないようだった。
 理性よりも先に本心が飛び出した。俺の口から飛び出したのは叱責だった。彼女を強引に引っ張り出して、俺は大人気ないことをした。
 
「何やってんだ!」

 ホームを発車した快速列車が叱る声を上書きする。誰1人として、振り返らなかった。まるでその数メートル四方だけが、この世から切り取られたみたいに。そんな真空世界だったから、コイツの声は嫌なくらいに通った。

「叔父さんのところへ行こうと思います」

 それは真実であって、またの名を嘘という。詭弁だ。阪神競馬場を目指しているなど自明の理。

「ダメだって言ったよな? 根拠も説明したよな?」
「覚悟の上です」
「そんなの、ただの自分勝手だろ。お母さんから頼まれてんだよ」
「弱気ですね」

 人々は改札へ降り去った。ガラリと静まったホームであろうと、俺は止まらなかった。
 
「死にたいのか? あぁそうだな。もういっぺん死んでみろ、俺ァもう知らねぇぞ?!」

 ヤバい。言ってから口を塞ぐ。大バカ野郎の肩がピクリ。しかし怯む様子はない。

「生きたいから、進むのです。あなたが望んだから……行くのです」

 マーチャンは明らかに泣いていた。それで許されると思うな。どうせ、大人に怒鳴られたから涙を流しているのだ。そんな己を衛るための涙なんて、俺は求めてない。
 彼女は溢れそうな雫を押し戻して、グッと歯を食いしばった。

 ──あれ? マーチャンじゃん。

 流石に人目を引いた。女子高生らしき声が聞こえる。どうやら切り離された空間が現実世界に繋がったらしかった。

「戻るぞ」
「嫌です」
「なんで拘る」
「そこに答えがあるからです」
「記憶もないクセに言い切んな」
「嫌です。そっちだって、可能性の話じゃないですか」
「あ?」
「確かに悪化するかもしれないですけど、治るかもしれないんですよ」
「0か100のクソゲーなんてやってられっか。2度言わせんな。俺だって親御さんから頼まれてんだよ、ショック与えんなって」

 マーチャンは黙ったまま言葉を探しているようだった。反撃の糸口は掴ませない。

「分かるか? 娘に『どなたですか?』って訊かれる母親の気持ちを。俺にかかってるプレッシャーを」
「分かっています。でもそうやって、トレーナーさんは何もしてないじゃないですか。学園へ行くだけ、病院へ通うだけ。web漫画で見たら、過去にも同じようなことばっかりして」

 マーチャンは少し躊躇って、それでもなお、発した。

「遊んでるようにしか見えませんよ、誰が見たって。本気でやってたんですか?」

 そのまま「なので」と続けた。

「私は行きます。あなたに止められようと。あなたの為に」

 ふざけんな、って思った。でも口には出せなかった。俺のマシンガンは、彼女の大砲に押し潰された。ペシャンコだ。重い、重い1撃だった。
 君のために手袋を買って、病院へ通って、リハビリにまで付き合ったのに。あぁ、ヤバい、泣きそう。

 ──まもなく通過する2番線の────。

 アナウンスが鳴った。マーチャンは振り返って、白線の内側にキャリーケースを寄せた。こちらを振り向きもせず。俺は反射的に、制服のコートを引っ張っていた。
 彼女は最後に振り返って、俺の船に鉛玉を打ち込んだ。

「今、私が飛び込んで死ぬのと“アストンマーチャン ”が死ぬの、どっちが良いですか?。選んでください」

 またスゥッと、俺の世界が遠く切り離された。人も音も離れて空気が透き通る。マーチャンは現実世界に残っていた。
 ガヤガヤと、向かい側のホームが賑わっている。定時で上がったであろうサラリーマンが、先頭で1人、席を心待ちにしていた。
 反対の列車が先に到着する。人々の温もりをかっさらって、ホームには冷たい風だけが残っていた。
 迫る二者択一。俺は身体が冷たいままの彼女なんて、嫌だと思った。
 茶色に錆びた線路がカタンカタンと、細やかな振動を刻んでいる。迫っているのは選択肢だけではない。運命の足音がする。
 やってくる列車の汽笛に乗せて、俺は自殺志願者を胸にぐいと引き寄せた。

「そういうことなので」

 彼女は意思を持つ、ハッキリとした強い目をしていた。

「分かった。俺の負けだから……。やめてくれ。冗談じゃない」

 駆け抜けた電車の烈風が、俺の前髪をびゅうと跳ね飛ばした。
 そこでやっと、彼女は「ごめんなさい」と謝った。
 全部……投げ出しても良いかな。もう疲れた。何のために頑張ってんだろ。
 飛び込む気はなかったです。そんな弁明に意味なんて無かった。後の祭り。襲われた感情に名前をつけようとしたら、俺が俺として壊れそうだった。己を責める涙は決して乾かないことを知る。
 その後は紙芝居を見ている気分だった。電車に乗ったかと思えば、飛行機のチケットまでお手のもの。トントン拍子とは正にコレ。
 神戸空港へ到着する頃。時刻は22時を回っていた。ずっと座っていたからか腰が痛む。頭を冷やすには十分な空き時間だった。
 俺はパターンを分析する。お母さまへの連絡は──野暮であろう。止められる筈だ。もっとも、本人に引き返す意思は無いらしいが。
 買ってこいと指示されたリュックは俺が使う。サイフとスマホを詰め込んだ。免許証さえあれば、まぁ、最低限は。
 そういうワケで俺達は、神戸市内をレンタカーで移動する。先ずは宿を探すことにした。
 叔父の一件は「明後日に会う予定です」とのこと。

「謎の空白の1日は──」
「ご明察。お母さまには大阪へ寄る旨を伝えておきました」
「その1日で阪神競馬場へ行くと」
「はい」
「はぁ……」

 排気ガスが更に汚れそうな音である。俺は溜め息を窓の外に吐き捨てた。ハンドルを握る両手から力が抜ける。
 当然ながら気は乗らない。約束を破るから。生きるか死ぬか。いずれにせよ、お母さまからの大目玉は避けられない。
 車を走らせている時は、マーチャンと色々な話をした。機内食が不味かったこととか「さっきはごめんなさい」とか。
 マーチャンが後ろ座席を選んだのも意味があった。そもそも目を合わせる必要がない。
 油断していたのだろう。ルームミラーに映る彼女は、ひどく萎んでいた。

「本当は、あんなこと思ってなかったです」
「本心ってのは、窮地な時ほど姿を露わにするモノなんだよ。ごめんね役立たずで。何もできなくて」
 
 嫌味を言ったつもりは無かったけれど、彼女は真に受けたらしく口を閉ざした。仲直りなんて、そんな悠長は許されない。許さない。しかし今さら止まれない。
 宿はすぐに見つかった。人目を避ける意味で俺が先に降りる。手続きを済ませて、そそくさと部屋に閉じ込める。風呂もスケジュール管理も……面倒くさい。
 それからは、なるべく会わないようにした。俺からアイツの部屋に行くことは無かったし、その逆も。アイツは何か言いげたったけれど、LINEは未読無視。朝にでも確認すれば良い。
 俺は電源を消してスマホを枕元に放り投げた。恐らく疲れていたのだマーチャンに。いつ頃に寝落ちたかは分からない。おやすみを言った記憶も無い。


    †


 きのこが生えそうな朝だった。青いアクリル板に防腐メッキしたような空模様。腐ることはなさそうだが耐水性は心配になる。
 俺達は9時頃に宿を出た。阪神競馬場に到着したのは10時半。開場は11時。時間が余っていたから、近くの100均で変装道具を少々。一般客に紛れて見学する。最後尾に並べた。
 幸い問題は無さそうだ。待機列で待とうと、誰1人として興味を示さない。せいぜいチラッと見る程度。世間の視線は桜花賞──ダイワスカーレットに注がれていた。
 平日にも関わらず人がズラリ。入場まで30分。喚起する看板を見かけるくらいには。
 マーチャンは視線をスマホに長々と落としたままだった。気まずいと言い換えれば、それまで。それが楽だった。
 我慢比べは俺の勝ち。赤い伊達メガネを何度もクイクイと直しながら、マーチャンは交渉を持ちかけた。

「あの……本当に……いや──。本当の本当に全てが終わったら……仲直りしてくれますか?」
「別に、喧嘩なんてしてないじゃん」
「そうですけど……。なんだか、遠いのです。トレーナーさんが。私が悪いことなんて分かっています。ですから──」

 相変わらず空を見つめたまま、俺は防いだ。

「もう、腹くくったよ」
「へ?」
「昨日、俺さ、ここにくるまでずっと考えてたんだ」

 ──遊んでいるようにしか見えませんよ。

「ですから、それは違います」
「分かってる。分かってるけどさ、結果はそれを語ってる。思ってなくても、それが事実なんだ」

 だから。

「俺も、応えたい。君が覚悟を決めたから」
「お母さんとの約束も──」
「うん、ね。そりゃ怖いよ。どんな結果に転ぼうと、バレたら即、契約解除だろうし」
「私は切るつもりなんてありません」
「いいや。世間は許さないし、何よりお母さまに向ける顔がない。もしかして、そんなことも想定してなかったの? それだけの責任を背負ってまで、ここに来たんだよね?」

 若気の至りとは言えど、達観の域にまで踏み込めたならば許されるのだろう。本当に、そこまで突き詰めたならばの話だが。
 人形の意思は、軽かった。俺が考えていたよりもずっと。彼女は俺の左手をつまんで打ち明けた。

「契約解除は嫌です。絶対に」

 俺は随分とワガママだなと思った。何度目か分からない溜め息が漏れそうになる。
 マーチャンは、その場でウロウロと狼狽しているようだった。
 現実は音に直した途端、スラリと牙を向くモノだ。逃れることは許されない。俺からも釘を刺す。

「今、後ろの人たちに顔晒したらウマッターで広がるかもね。『アストンマーチャン阪神競馬場にいる』って。口コミって凄いよ。よく分かってるよね? 病院でも噂になるだろうな」

 その意味を理解できないほど、彼女はバ鹿ではなかった。
 列半ば。両サイドの赤いコーンはバーで繋がれている。後ろに並ぶスパイ達は壁のよう。列を割れば2度と戻れないだろう。この場所にも、この立場にも
 ──今、私が飛び込んで死ぬのと“アストンマーチャン ”が死ぬの、どっちが良いですか?。選んでください。
 君がそう縛ったように、俺も状況で拘束する。
 俺が死ぬか“トレーナー”が死ぬか。どっちが良い? ほら、選べよ。
 間違っても「戻りたい」なんて甘えんな。

「えっと──」

 よく分からない顔だった。それは困惑か。あるいは、後悔。
 マーチャンは両目を深く閉じ込んで「はい」と答えた。
 俺も大人気ないことをする。
 ──忘れてしまったんたね。
 まだ辛うじて記憶が繋がっていた時の宣告とは違う、呆れにも似た怒りの矛を振るう。
 俺達は互いに踏み止まれたはずだ。しかしその選択を採らなかったのは、マーチャンが大人びた子供である一方で、俺は大人じみた子供だったから。
 意地ってヤツだ。否定されたから? いや、覚悟を決めたから。それは責任でもある。

「全部、終わらせれば良いじゃん」
「……はい」

 列が、動く。というよりも後ろから急かされた。どうやら進んでいたようだ。俺達の前に水たまりのようなポッカリとした穴が空いている。話し込んでいて気が付かなかった。
 つままれた左手を振り解いて、俺は空洞を埋める。少し遅れてやってきた彼女の表情は、まだ分からないままだった。
 阪神競馬場は俯瞰視点からパドックを見渡せることで有名だ。レースは開催されてないけれど、そちらへとチラホラ流れる人がいた。
 観覧は自由ということで俺達は資料館をスキップする。ホールを抜けてコース場へ急ぐ。階段を登りきれば、あの苦々しい記憶とご対面。
 さて、一か八か。目の前にターフが現れる。

「わぁ……ここが。“アストンマーチャン”の死んだ……」

 ザワザワと、芝のカーペットが揺らいでいる。ちりばめられた桜チップ。3月初旬の花びらは淡いピンク色に染まっている。出会いと期待を含む色だ。うなじに当たるそよ風が桜をひらりと舞い上げる。
 最後尾からターフにかけて階段を見下ろせば、最前列に3人の家族を発見できた。7つくらいであろう赤茶毛のウマ娘がフェンスに顔を押し当てている。「私もここで走るんだ」と。そんな幸せに満ちた雰囲気が、ここからでも読み取れた。

「怪我をした時とは、まるで違うな」
「私がですか?」
「いいや。会場の雰囲気が。あの日は冷たかったけど、今日は……あったかい」
「そうですか。それは良い兆候なのかもしれませんね」

 マーチャンは辺りをぐるりと展望する。目の前は最終直線。ダイワスカーレットと争って、夢が潰えた場所。その奥──第1コーナーは植木に隠されて見えない。問題ない。
 あの日のレースを、俺は観客席の下から観戦していた。トレーナーの優待だ。だからこそ飛び出せたワケだが。

「ちょうどこの下、覚えてる?」
「なんとなく」

 マーチャンは導かれるように、ふらふらと階段を降りていく。1歩、2歩。コンクリートの床にスニーカーをゆっくりと貼り合わせながら、視線を1点に集中させて。

「何か思い出したのか?!」

 声が届かない。歩みも止まらない。彼女はフェンスにがしゃりと手をかけて、じっとある地点を見つめている。
 彼女の意識を戻したのは先ほどの幼いウマ娘だった。

「あれ。えっ、うそ、えっ、え?」

 隣のお父さんらしき人が代弁した。

「もしかして、アストンマーチャンさんですか?」

 当の本人が答える前に、ちびっこがマーチャンの太ももに勢いよく抱きついた。「しーっ」と指を当てる前に。

「なんと?!」
「コラコラコラいきなり失礼だろう。ごめんなさい、うちの娘が」

 とりあえず俺が間に入る。

「お子さんですか? マーチャン大丈夫?」
「えっと……はい」
「あの、わたくしトレーナーを務めている者なのですが、どうかこのことは内密に……」
「えぇ。プライベートでしょうから」
「助かります」

 引き剥がされた娘は興奮冷めやらぬといった様子。最前列の数メートルを何度も往復して、飛び跳ねていた。
 話を聞けば、筋金入りのマーチャンファンなのだと言う。
 少女は首を傾けて、ミミ飾りを指差した。

「ねぇねぇマーチャン!これ、分かる?!」

 どうやらイヤリングらしかった。クリップに赤と金色のロイヤルクラウンが付られている。

「これは……私の勝負服の……」
「そう!! 私、あなたになりたいの!」

 その子のお母さんが嬉しそうに語る。

「すみませんね。この子、あなたのことが大好きで聞かないんですよ」
「いえいえ」
「いくら『王冠つけなくて良いの?』って聞いても──」

 必然と言わんばかりに遮られた。
 
「G1で勝ったら付けるもん!」
「──って言って。どうか1枚だけでもお写真を撮って下さいませんか?」

 パシャリ。カメラは向こうが持っていたから、とりあえず。
 お父さんが続けた。

「やっぱり、記事の件は本当だったんですね」

 記憶喪失のことだろう。そう検討がつく。

「えぇ。今までのマーチャンなら、ファンとの撮影を1枚で終わらせることなんて有り得なかったですから。今はその治療中なんですけど、まぁ、その、色々とありまして」
「そうなんですか。これは踏み入ってしまい申し訳ない」
「いえいえとんでもない。本人にとっても、良い刺激になっているようですから」

 娘さんがマーちゃんの右手を引っ張って質問をした。

「あのレース、覚えてないの?」
「あのレースとは……なんでしょう」
マイルチャンピオンシップ……」
「あっ……。はい……。聞いたことだけ……」

 スタンド席の右端まで連れて行って、更に右斜め前を指差した。芝1600メートルにおけるスタート地点だ。
 マイルチャンピオンシップはね。それから始まる解説は、情景が目の前に浮かぶくらい鮮明だった。
 大事故のインパクトがそうさせたのか。俺はそうあ思わずに居られなかった。娘さんが否定した。

「頑張って逃げ切ろうとするマーチャンが好きだったの! 怪我も乗り越えて帰ってきてくれる。そうでしょ、トレーナーさん?」
「あ、あぁ」

 マーチャンの方を振り返った彼女は言う。

「ねぇねぇ、あそこ、覚えてる? 本当に惜しかったんだよ」

 少女がすぐ目の前を指差した。そこは先ほどマーチャンが見つめていた場所──残り100メートル地点だった。最終直線。マスコットの墓場。

「痛ッ──」

 その2文字を音に変えたのは、マーチャンの声だった。ガシャリ。フェンスの軋む音がする。
 墓場に目を奪われていたから、俺は遅れて気がついた。額と生え際の境目を両手で抑える彼女が、ふらふらと揺れている。
 
「おい?!」

 すぐさま席に座らせる。しかし、ゆらゆら、ゆらゆら。
 頭をぐるりと一周させて、俯きながら彼女は言った。

「そうです。私のピッチ走法が乱れて、転んで──」

 そう、そこの柵にぶつかったの。頭を蹴り上げられたの。
 ゆらゆら、ゆらゆら。
 少女の言葉はトリガーする。

「あっ──」

 揺らぎがピタリと静まった。目を見開いたまま硬直する。その視線は、右脚を捉えていた。
 どれくらいの間だっただろう。その小さな背中が、ガタガタと震えだした。

「ッハッ、ア゛ッ──」

 彼女を襲ったのは過呼吸だった。右の太ももに爪を立てて、白い肉をザリザリと削り取る。目の前にあるのは、初めて発作を見たあの日と同じ光景。
 刺激が強すぎた。少女はパパの後ろへと避難させる。今にも泣き出しそうな両目に手を当てて、ママが階段の上へと遠ざけた。
 俺はトレーナーの心得を復習する。

「大丈夫か?! ゆっくり息を吐き出してみろ! 吸うな!」

 背中をさする。リズムを刻む。ビニール袋を口に当てて「安心しろ」と声をかける。止まらない。
 トレーナーの心得⑦〈精神的な問題が考えられる場合:処置を終えても症状が改善しないならば、安心させることを優先せよ〉。これしかない。
 小刻みに震えている背中に、俺は両腕を回す。考えるよりも先に身体が動いていた。
 状況から言えば、どう見ても抱きしめていた。

「ごめん、ごめん。俺が悪かったから。なぁ、なぁ……」

 治るんじゃなかったのかよ。終わるんじゃなかったのかよ。何で、どうして。──どうしてじゃないか。ツケが回ったのか。
 もう意地でも責任でも何でも良いからさ、早く治ってくれよ頼むから。どうして俺たちばかりが、こうも理不尽な目に遭う?
 学園で君とコーヒーを飲んで、小説を読んで。商店街でクリスマスプレゼントを買って、手袋を半分こしたらそれすらも忘れられて。
 遊んでいたから──はい、リセット。そんな人生をリセットするなんて、あまりにも勿体ない。そう決心したから、やり直せたのに。俺なりに頑張ったのに。
 1からジェンガを築いたけれど、それでさえ忘れてしまうんだね、君は。もう嫌だ。

「ごめんな……ごめんな……」

 後悔は先に立たなかった。後ろ髪を撫でる度に、伊達メガネのフレームが俺のこめかみを擦るのだ。静脈の荒ぶりを頬で感じとる。なぜ止まらない。
 約束に世間体、契約解除。身体の心配よりも先に、前借りした脅し文句が返済される。もう本当に、贅沢ばかりが頭をよぎる。

「あなた──は────に」

 カチ、カチ、と歯を噛み合わせながら、マーチャンは何かを伝えようとした。多分、記憶の欠片だ。
 でも言葉に直す前に、彼女はガクリとうな垂れた。
 脱力しきった脳部って重いんだよ。さながら鉄球だ。俺の左肩に転がっていたのは、だだの肉の塊だった。
 それ以降は朧げだ。救急車で受け入れ可能な病院を探している時から、検査するまで。1人で帰る時も、ずっと。
 分かったことは1つ。“アストンマーチャン”は死亡したという事実だけ。1度ならず2度までも。記憶も無ければ口も聞かない。ほとんど植物同然になった。
  “トレーナー”もまた、くたばった。まさか同じ競馬場に墓を建てられるとは。不幸中の幸いか。俺は、それだけで充分だと思っている。
 

 

5.【裏切りと責任】

「何してんですか?!」

 東京に帰って数日後。ナースステーションでの開口1番がそれだった。予想はしていたが、いざ言われると。
 マーチャンのお母さんも雑言は沢山あったと思う。プライベートだったら、その場でブン殴りたかっただろうとも思う。
 マーチャンは神戸総合病院に居ますよ。1人で帰ってきた旨を伝えたら、もっと怒られた。

「バカなんですか?! そうですよね?! あぁ、信じなければよかった!! もう良いです、私が連れて帰りますから!」

 涙を流しながら発狂していた。そりゃそうだ。後ろでキーボードを打つナースさんも、彼女を止めようとはしない。みな目を伏せている。俺は、ぶつぶつと謝ることしか出来なかった。
 背中に人が溜まって列になる。受付が滞る。ナイフに貫かれるようだった。

「お願いします。では」

 俺はポケットに手を突っ込んでクルリと背を向けた。本当の意味で逃げ出した。投げ出したから、追いかけられた。

「待ちなさいよこの人殺し! あぁ〜〜、もうっ! あなたをトレーナーにしなければ良かった!!」

 病院で走るな。知らねぇよ。

「言ったじゃないの、娘に忘られたくないって。約束したじゃないの……」

 ひたすらに全力だった。あの場の全員が敵のように感じられたから。逃げれば逃げるほど、掠れた声は遠く、遠く離れていった。上がった息と心臓の鼓動がうるさい。黙れ。
 叱責のLINEは既読だけ。とりあえず、画面が硬い文字でビッシリと埋め尽くされていたことは覚えている。消音モードに設定して、情報を完全にシャットアウト。
 怒り狂った彼女は全てをメディアにリークする。それからの俺は腫れモノ扱いだった。いつ何処を歩こうと背後に気配を感じるのだ。

「よくトレーナーでいられるよね」

 誰が言ったかも分からない。そうだよな。みんなそう思ってるよな。納得する自分が居た。まだ悪者の方がマシだったのかもしれない。吹っ切れられたのに。
 無断欠勤こそしないけれど、有給休暇は確実に減った。1週間ほど閉じこもっていたら、体重もゴッソリと減った。髭を蓄え過ぎている。洗面所の鏡に映る俺は、罹ったら診断書を下されかねない顔つきをしていた。
 嫌がらせも少々。というか、日に日に増えた。切り抜きの悪口は序の口で、ついには殺人予告まで来た。参ったな。
 いっそ旅にでも出ようか。誰も俺のことを知らない、人里離れた森の奥にでも。
 そうだ。ロープでもあれば良い。腹を満たせれば獣の為にもなる。

 ──海は命が流れていくところです。

 俺にその資格はない。アイツは海で流されて輪廻して。いつの日かアストンマーチャンとして転生できれば本望だろう。
 俺は──埋め立てられるのが似合っている。山の中なんてどうだろうか。
 墓場は同じだ。恐れるな。だが最低限のケジメを付ける必要があるだろう。
 現役続行なんて夢のまた夢。俺は理事長室に赴いて、保留していた件に区切りをつけなければ。契約解除の書類に印鑑を押した。せめてもの罪滅ぼしをする。
 提出の間際、理事長に書類を返された。

「無念! 本当にそれで良いのだろうか?! いま一度、考え直してはくれまいか?」
「もう良いんです。疲れました」
「ならば君に問おう! トレーナーとして本当に必要なモノは何だと思うかね?」
「さぁ……? 何でしょうね。G1を勝たせてあげられる手腕なんてあれば良いんじゃないですか? まぁ……。そんな大層な才能、俺には無かったようですが」

 扇子をばさりと広げて彼女は否定した。

「否! 確かにそれも大切だが、断じて否だ! 本当に大切なのは心構え。担当ウマ娘に寄り添える精神力こそが最も必要なのであって、君はそれを持っているだろう。聞けば、記憶を取り戻すために彼女の側に居続けたそうじゃないか」
「えぇ、寄り添いましたよ。それで全部上手くいってれば、ここへ来てないですが」
「あぁ。……だが私としても、君のようなウマ娘想いな者を失いたくはないのだよ。アストンマーチャンのトレーナーは君にしか務まらないと思っている」
「そうですか。……なら理事長は、懇意を『遊んでいる』のひとことで片付けられたことはありますか?」

 ほう、と扇子が閉じられる。彼女の頭に乗る猫が、1度だけニャアと空に鳴いた。

「それで賭けてみたらこのザマです。半ば強制的とはいえど、たかが十数歳のコトバを鵜呑みにするトレーナーなんて本当に必要ですか? 良い大人がですよ。学園の看板に土まで付けて」
「確かに。君のしたことは看板に泥を塗るような行為だったかもしれないな。親御さんを裏切るような行為だっただろう。だが、それは結果に過ぎない。アストンマーチャンを、彼女を、大切に想ってのことだった。そうだろう?」
「そんなの詭弁です。あなたが許しても、お母様は許さない。お気持ちは嬉しいですが、もう放っておいて下さい。お願いします」

 受け取る気なんて無さそうだったから、俺は机の上に置いて部屋を後にした。案の定「まだ受け取らないでおく」と言われたけれど、知ったことではない。
 家にいても窮屈だったからトレーナー室にいることが多くなった。有給を使い終えてからの俺は事務に専念した。中間テストを採点したり、未デビューの生徒データをExcelの表にまとめたり。4月から新学年ということで、担当が居なかろうと仕事が舞い込んでくる。
 トレーナー室の掃除もした。錆びかけたトロフィーは段ボール箱へ。LOVEだっちはカバーを外して紙袋の中に積む。マーちゃん人形を、90リットルのゴミ袋に詰め込んだ。身辺整理と呼ぶべきなのかもしれない。
 ソファの裏に冷蔵庫の上。人形が至る所に隠されていた。どれも埃まみれ。残したひとつは麻縄と共にリュックの中。
 隠されたヤツほどデカくてさ。どのゴミ袋もパンパンに膨らんだ。私のこと忘れないで下さいね。そんな、儚く散った少女のことを思う。


    †


 それは、狼の咆哮が聞こえそうな夜のことだった。ダンボール箱と膨らんだポリ袋が満たす空間の中で、ソファが、ポツリ。
 明日は休日。眠れそうもない。唯一残された家具に寝転がって、俺はスマホの液晶をスライドする。
 第159話。暗がりにボンヤリと浮かぶタイトルリンクを、右手の親指で押し込んだ。あれだけ書いたweb漫画を開く。

「うわっ。懐かし」

 その備忘録に声が出た。銅像建てるなどして呼び出された回も、今となっては笑い話。俺は「こんなこともあったなぁ」なんて呟きながら、最後のページに辿り着く。
 更新が、数週間前で止まっている。やたらと膨らんだコメント数。覗けば心配ばかりが寄せられていた。やめてくれ。揺らぎそうになる。
 4/30/AM2:16。デジタル時計に目をやって信じられなくなる。普段の俺ならば絶対に寝ている時間だ。無理やり目を閉じる。朝日が昇るまでは、せめて。その矢先、瞼の裏に光を感じた。
 正体はLINEの通知だった。ホーム画面に浮かぶバー通知で宛先人は確認できた。たづなさんからだと? 俺は深く押し込んで内容を確認した。既読は付けない。
 夜分遅くに失礼します。それから始まる丁寧な文章にも関わらず、ことは急を要していた。

 ──アストンマーチャンさんが病院から脱走したようで、そちらで見かけていませんか?

「はッ……?」

 脱走とはまた見覚えのある。溜め息が出そうにもなる。アイツは忘れても同じことを繰り返すんだな。まぁ、もう俺には関係ないことだがな。未読無視ってやつをする。
 まぁ、どうせ明日はやることが無い。俺は徹夜を覚悟してコーヒーメーカーのスイッチをオンにした。ふわりと、リハビリの日々が香る。
 必然と言うべきなのだろうか。メーカーのスイッチがカチリと知らせる頃。真夜中の招かざる客があった。コンコンコンと、扉を叩く3回のノック。緑の人かと思ったら違うようだ。

「なぁ起きてるか? 入るぞ」
「あぁ、どうぞ」
「サンキュー」

 扉の先にいたのはウオッカだった。そのすぐ後ろにダイワスカーレット。2人とも、赤い体操着に身を包んでいる。
 辺りをグルリと見回して、ウオッカは感想を口にした。

「うわっ。俺の部屋みてーだな。あんたなんで荷物まとめてんだよ。辞めるわけじゃないんだろ?」
「ちょっとアンタ、あんまジロジロ見ないの」
「構わないよ、ちょうどコーヒー飲もうと思ってたし。1杯どう?」
「ありがとうございます。でも、今はいいです」
「なるほど。君たちは何をしに?」
「メール読んで無いんですか?」
「疑問を疑問で返すのは感心しないな」

 2人曰く、マーチャンは学園のターフで走っているらしい。ウマ娘を止めるにはウマ娘しか居ないということで、2人が駆り出されたと言う。

「なるほど。だからこの時間に。体操服を着ているわけだ」
「なるほどって……」
「なぁ、オメーは良いのかよ、そんなんで」
「と、言うと?」
「本当に俺たちが止めて良いのかよ? パワーでこそ止まるだろうけど、意味ねーと思うんだ」
「知らないよ。もう、解約は終わってる。“シニア期までに成果を挙げられなかったウマ娘は契約を解除される”。そうだろ?」

 ウオッカは眉間にシワを寄せて、尻尾で木の床をパタリとはたいた。

「ちょっと、そんな言い方ないじゃない。仮にもトレーナーやってた立場でしょ?」
「やってたからこそ、その意味をよく知ってる。トレーナーだって、早めに見切りを付けないと生きていけないからね」

 スカーレットに嘘は通らない。うっすらと目を細めて、躊躇いながらも言った。

「──生きる気なんて、ないくせに」
「は? おいお前、そりゃ無いだろ」
「あんたは黙ってて。私だって言いたいこと溜まってるんだから」
「……なんでそう思う?」
「この部屋見れば1発で分かるわよ。トレーナー業を辞めるわけでもないのに、この片づけ具合。まるで身辺整理じゃない。どうせ下らないこと考えてたんでしょ。さっさとマーチャンを助けて来なさいよ」
「いや……勝てないな、お前には。レースも勉強も、どんなものでも俺たちを超えやがる」

 恨んでない。選手達が全力を出した結果だから。でも。

「君たちは何も知らないだろ。気持ちは嬉しいが、部外者に口を出される謂れは無いな」

 スカーレットは両ミミをキュッと絞って、語彙を強めた。

「マーチャンの気持ちなら、あんたよりも断ッ然分かってるわよ! あんた、隣にいたくせに何も見抜けてない。何でマーチャンが殻に篭ったのか、本当に分からないの?」
「おいおいおいスカーレット。そりゃ言っちゃダメだろ。さっきからどうしたんだよ」
「うっさい!コイツは言わなきゃ分かんないのよ。本当に、情けない」
「なんだよさっきから。もう帰ってくれ」
「いいや聞きなさい。あの子はね、呪いに苦しんでいるのよ」
「は?」
「呪縛に縛られながらも、あなたを……それこそ死ぬほど欲しかったのよ」
「待てよ、どういう──」
「なぁ、言われたことあるんじゃねぇのか?」

 確かに、心あたりはあった。
 有マ記念の時だ。確かに彼女は契約の更新を望んでいた。確実に俺を求めていた。

「あいつ、お前のこと大好きだったんだぞ」
「でも。それは──」
「えぇ、そうでしょうね。あの子なら変な隠し文句でもつけたでしょうね。違うわよバカ」

 スカーレットが「あのね」と続ける。

「マーチャンはね、あなたが思っているよりもずっと計算高くて、聡明なの」
「知ってるよ、計算高いことなんて。いや──」

 アイツは先が読めるゆえに、理解するのも早かった。だからこそ線路に飛び込むような選択肢を俺に強いた。自分の思い描く選択がされることを信用しきっていたから。思い出すキッカケとして、手袋だって渡してきた。
 それが有馬記念の時も同様だったならば? メッセージを思い返せ。

 ──「恋人には、なれません。多くも望みません。だからせめて、契約の更新くらいは願っても良いと思うのです。私のトレーナーであり続けてください。来年も、その先も」

 そうか。アイツは同じ舟に乗せた俺だけを、心の底から信頼したかったんだ。例え世間であらうと友達であろうと、この世に生きる誰1人の記憶から抹消されようと、せめてもの絶対を欲しがった。心の底から信頼したくて、手を伸ばした。
 結局のところ、俺たちはどこまでも生徒と学生なのであって、決してその先を目指すことはない。それこそスカーレットに匹敵する成果を上げなければ。
 いや、マイルチャンピオンシップに敗けている。夢は潰えている。あぁ、そうか。

 ──マーチャンは絶対に忘れられたく無かったのだ、俺だけには。

 なぜマーチャンは、今まで人を舟に乗せなかったんだ? 信頼しきれなかったんだ?
 違う。それが呪いなんだ。医者の娘として産まれたからこその、深い深い、業。

 ──病院は命が流れるところです。

 それは彼女がマスコットたる根幹だ。まさか呪いだったなんて。俺は1度たりとも考えたことが無かった。
 
 ──ターフも命が流れ落ちるところです。

 怪我をすれば選手として、死ぬ。レースでも同じことが言えている。
 だからこそ、マーチャンは当てはめざるを得なかった。幼い頃に刷り込まれた、鎖のような呪いを。

 成果を挙げられず呪いに縛られて、信頼した俺からは契約の満了を告げられて、後ろを振り返っても誰ひとり居なくて、隣にすら──。

 あァ。君はそれを恐れていたのから、記憶を本能的に閉じ込めた。脳が全てを計算した上で導かれた最適解が、解離性健忘だったのだと思う。
 同じ舟に乗せたヒトが荒波に呑まれて死ぬくらいならば、初めから無かったことにしてしまえ。出航記録を書き換えてしまえば死ぬことはない。死んだことにもならない。
 バカ野郎。忘れるワケないだろうが。契約更新だって約束しただろ。
 いや。
 バカは俺か。
 カリソメばかりを結んで、呪縛に気がついてやれなかった。ヒントは出されていたではないか。なぜ理解できなかったのか。もう本当に、言葉にならないモノばかりが降り積もる。
 俺は分かっているようで、何1つ理解できていなかった。
 
「マジかよ……」
「まぁ……同情の余地はあるわね。多分、原因を特定できたとしても、あなただけでは治しようがないわ。恐らくあの子の中で完全に精算しきらない限りは、一生ループする」
「……」
「私だって気持ち悪いのよ。私がマイルチャンピオンシップで勝ってから、あぁなったんでしょ? 手にかけたみたいじゃない。マーチャンとは、まだ走っていたいのよ」

 あの子もウオッカみたいに──。それ以降を続けることはなかった。それは友達としての願いか。女王としての余裕か。明らかに前者だった。今度こそ、真意は汲み取れた。

「アイツが俺みたいになるのは許せねぇな。責任とってこいよな、後悔する前に」
「説得されたって、俺は、すでに色々な人に──」
「んー……説得じゃねぇな。トレーナー辞めンなら止めはしねぇ。でも何より救われないのはマーチャンだろ。アイツは生きたがってんだよ。逃げるにしても、せめてスジ通すのが大人ってモンだろ?」
「死ぬなら責任とってからにしなさい。許されるかなんてどうでも良いのよ。姿勢よ、姿勢」

 言われなくたって分かってる、そんなこと。知ってて逃げているんだよ。みっともないって笑えば良い。でもさ。

ウマ娘ってのはな、2度死ぬんだよ。選手として、生き物として。オレみたいに、心臓が止まる前に死を経験するんだよ。なぁどう思う? それすらも忘れられたら幸せだと思うのかよ?少なくとも俺はそうは思わねェ。ウマ娘は困難を乗り越えてからオトナになるんだよ。正直、俺もトレーナーと離れるのは辛かったけど、今ではそれで良かったと思ってる。10年後に酒でも呑もうって約束できて、幸せだったしな」
「トレーナーとしての責任……か」
「おうよ」

 山に埋まるにしては早過ぎたのかも知れない。俺はそう思った。冷めかけたコーヒーから湯気がユラリ、揺れる。

「ごめん。ちょっと行ってくる」
「やっとね。第3ターフよ。マイルのとこ」
「助かる。ありがとう2人とも」
「おうよ」
 
 ウオッカはそう言って、小さな拳を俺の胸にぽすりと当てた。また割れそうな顔をしていた。ごめんな思い出させて。

「3度目は無ぇからな、今回こそ救ってこいよ。正直になってこい」
「あぁ。ごめん。ありがとう」

 俺はトレーナー室を飛び出した。全力で、走った。駅のホームへ急いだ時よりも速く。履き替えるのも忘れて死に物狂いで脚を回す。今なら、ウマ娘にも勝てるような気がした。

 

 マーチャンも暗闇の中を走っていた。ピッチ走法なんて覚えてるはずがなかった。明かりもつけず、ヨタヨタと足元をフラつかせながら前へ進む。ヒトでも追いつけるほど、遅かった。ほとんど過呼吸な息継ぎをしながら、憑かれたように前だけを見ている。

「マーチャン!」

 前に立ちはだかったのに無視された。すれ違う。いくら呼んだって止まろうとしないから、俺は後ろから左肩を掴んだ。それで、ようやく。
 マーチャンは患者服のままで、裸足だった。白い靴下は網目のように、赤く、滲んでいた。両膝も傷だらけ。何回転んだのか分からない。誰が見たって、選手とは思えないバ体だった。問いかける声も、やすりで削ったみたいに細かった。

「どなた、です、か? 何で止めたんですか?」

 トレーナーだった人だよ。いつかのセリフを繰り返す。
 ダメだった。思い出してしまった。楽しくて、辛かった日々を。泣きそうだった。忘れられていた事実よりも思い出の方が、よほどキツかった。
 なぁ、俺のことなんか覚えてないだろうけど、せめて謝らせてくれよ頼むから。

「ごめんね」

 何よりも伝えたかったことを言う。全部を要約したことを言う。それで足りるなんて、到底思わなかったけれど。言葉にならないな。本当に、似たセリフばかりが口をつく。

「走らせて……下さい」

 マーチャンは虚の中に生きていた。見たこともない成人男性なんて跳ね除けて、ボロボロな脚で立ちあがろうとする。もう良いから、休め。
 そうか。君は人生にカンマを欲しがっているのか。まるで文豪が書いた長く美しい文章のように、どこかで節目をつけて整理をしようとしているのか。
 走って、走って、虚構を追いかけて。そうやって、ダイワスカーレットに勝とうとする。
 俺は全部、吐き出した。ガキでごめんねとか、想いに気がついてあげられなくてごめんねとか。1人よがりであって、決してそうではない独白を告げる。最後にずっと一緒に居ようねって、言った。

「なんで……やめて下さいよ……。トレーナーって何ですか……。でも、でも、なんでこんなに悲しい気持ちになるんですか?」
 
 感情だけは覚えている。君の言ったことだ。どんなに忘れても、想いだけは残っている。
 マーチャンは、まるでダムが決壊したように泣いた。何を堰き止めていたのかも分からないだろうけど、ずっと、ずっと。透明な粒がやわらかな頬を滑り落ちる。1粒では足りなくて、ぽだぽたと芝を濡らしていた。

「もう、俺には必要ないね、これは」

 俺は誓いを再現する。左片方の手袋で角質の割れた右手を握った。骨の浮く、痩せ細った指。また強く握って、脱いで、彼女に纏わせた。少しぶかぶか。

「えっ、あっ、それ──」

 患者服のポケットから出てきたのは、もう片方だった。新品のように綺麗で、左とくっつけてハートになる。あなたの、少しボロボロですね。

「なんでまだ持って……」
「……これを見るたびに、なぜか胸が痛んだので」
「うん。うん。そっか。そうなんだね」

 俺は右、彼女は左。交換して、着けて、手を繋いで、黒いハートを完成させて。そうやって恋人みたいなことをする。逆に君のハートはキレイだね。大切にしてくれたんだ。
 ボンヤリと滲んで輪郭しか見えなかったけれど、それは決して暗闇のせいでは無かった。

「ずっと持ってたんですよ。えへへ、あったかい」

 2人とも鼻をすすってばかりだったけど、それ以上の言葉は不要だった。あとは呪いを解くだけだ。精算しよう。

「ゴールで待ってるからさ。全力で走って来てよ」

 俺たちはクリスマスより以前──さらに過去の記憶を再現する。芝1600メートル。神速マイラーは2人いる。1番人気、ダイワスカーレット 。0番人気、アストンマーチャン
 俺は右片方を彼女に渡して、携帯の電源をつけた。久しぶりにストップウォッチを起動する。

「行ってきます」
「うん」

 春の風だけが音を立てる空の下で、マイルチャンピオンシップは始まった。向こう正面のスターティングゲートから飛び出す影が1つ。吐き出される白い息が、汽車の煙のようになびいていた。
 先頭を独占して600メートル地点。序盤で既に後方へと呑み込まれているタイムだったけれど、その脚色は衰えない。必死になってクルクルと脚を回す姿が人の心を掴むのだ。

「頑張れ!!」

 心の底から思ったことを叫ぶ。彼女の赤い唇が薄く、弧を描いた。息も上がって、ペースだって落ちているのに。彼女はニコニコと笑いながらコーナーを回った。曲がりきると最終直線──“アストンマーチャン ”の墓場に差し掛かる。あと100メートル。足が止まりかける。トラウマが蘇ったのか? いずれにせよ、スタミナは限界を迎えているようだった。 

「そこで止まるな!! 戻ってこい!」

 俺から出迎えることはしない。ゴールへと辿り着くことに意味がある。かつて身体を打ちつけた鉄柵に寄り添いながら、今にも消えそうな灯火は歩を進める。ゆっくり、ゆっくりと。
 3:05:27。それがゴールタイムだった。どのレースよりも遅い結果。でも──。

「ありがとう……」

 それが本心だった。やっと、彼女は幻影を抜き去れたように思う。俺は身体を引きずるマーチャンを受け止めて、思い切り抱きしめた。ぜいぜいと、苦しそうな息遣いが耳に当たる。
 
「勝て、まし、た」

 俺はつぎはぎになった言葉を聞く。思い出したのかも分からない、曖昧なセリフだった。最後のごめんねを告げてから、おめでとうを添える。俺の背後を指さす彼女は言った。

「むふふ。眩しいですね」
「ん?」
「朝ですよ。見て下さい。ほら後ろです、後ろ」

 キラキラと、校舎の隙間から白い光が漏れている。校舎裏から登る朝日の出。あっという間に地面を新緑の色に染め上げた。彼女のひたいから汗が滑って、鎖骨にスルリと滑り込む。スマホのデジタル時計は5時53分を示していた。

「あぁ、もうそんな──。って、朝練が始まる時間か」
「そうですね。色々とマズそうなので、早く逃げちゃいましょっか。でも、もう動けそうもないので──」

 俺が振り返されたことを計算にしていたかのように、マーチャンは俺の背中に飛び乗った。軽い。これは体重を増やさないと。

「病院に運んでください。多分、今頃大騒ぎなので」
「まったくだよ。ん〜……にしても気まずいな」
「何かしたんですか?」
「追い追い説明するよ」
「わかりました」

 1歩でも、俺達は前に進めたのかな。大人になれたのかな。そうであってほしい。俺は切にそう願っている。

 


6【エンディング:小説は現実よりも奇なり】

「LOVEだっち、今日で最終巻らしいぞ」
「なんと。それは見逃せないですね」
「帰りに買ってく?」
「はいなのです」

 マーチャンはハンガーの柄に掛かったロイヤルクラウンを頭に着けて、ふんすと意気込んだ。中山競馬場の控え室で、俺たちは呑気な話をしていた時のことだ。今から有馬記念を走る。そんな雰囲気には到底見えないのだが。
 シニアを超えた今でもマスコットは健在だ。相変わらずのマーチャンがそこにいる。とは言えど完全に思い出したわけではなくて。記憶は断片的に復元されている。ゆっくりとではあるが、取り戻しつつある。

「勝たないとお母さんに面目たたないですね」
「うっ。プレッシャーかけんなって」
「冗談ですよ。まぁ、見ていてください」

 マーチャンのお母さまとは……その、色々あった。契約は……まぁ無理だと思っていたんだけど、マーチャンが強硬策に出た。
 判子を押すだけ押して、さっさと提出。早い者勝ちだと言わんばかり。鬼の居ぬ間に洗濯。
 あの、病院を脱走した日以降の俺は全力でマーチャンの実家に通い詰めている。初めこそ門前払いされていたけど、最近は敷居を跨げるようになった。靴を脱ぐことは許されない。座布団で謝れるのは5年後かなぁなんて話をしながら今日に至る。
 これを最後のワガママにしようと思っている。態度で示す。トレーナーとしての責任を果たす。その道半ば。

「賭けをしましょうトレーナーさん」
「ん?なんの?」
「1着を獲ったら、私から読ませて下さい。
「仕方ないなぁ。あっ、なら2冊買う?」
「それじゃあトレーナー室に遊びに行く口実が無くなるじゃないですか」
「それ言っちゃうのか。別にいつでも来て良いのに」
「もう、鈍感さんですね。まぁ良いです。それと、もう1つだけ、大切なお願いがあるのですが」
「うん」
「スパイごっこをした時のこと、覚えてますか?」
「もちろん。アレだろ? 記者達から逃げて学園に行った時のやつ」
「はい。今回もそのようにして、最終巻の内容をなぞって下さい。まぁ、勝ったらで良いですけども」
「……? おっけー」
「はい。録音しましたので。そろそろ行きましょうか」
「マジ? まぁ良いけどさ」

 何を言いたいのか、少し分かった。フィナーレは最後に、多分そういうことなのだろう。


 有馬記念──中山 雪 重 右

 ・1番人気、アストンマーチャン

 ・2番人気、ダイワスカーレット

 
 グラグラと、中山競馬場がヒトの躍動に揺れている。観客席の熱量は真夏日さながらだ。うっすらと蒸気が立ち昇る。空に消える白い煙があれば空から舞い落ちる白雪もある。
 フリーランス等級でのドリームレース。充分にメディアの視線を引いた。否定したはずの約束を果たす時だ。短距離マイル路線のマーチャンが勝ったら、まぁ、ヤバい。
 過去に「無理だ」と押し付けた現実を撤回できる。負けるとは思ってない。むしろ真逆だ。頼むから勝ってくれ。いや勝てる。

「マーチャンさん〜!!」

 観客席の最前列から聞き馴染みのない声がした。しかしその顔は知っている。イヤリングのロイヤルクラウンを忘れるはずが無い。ファンの子だ。本格化を迎えたらしく、その姿と背格好は第2のマーチャンと言ったところ。
 当の本人はトコトコと近づいて「お久しぶりですね」と声をかけた。

「あっ。覚えていてくれたんですね!」
「もちろんです。元気にしていましたか?」
「はい!見て下さい。この冠!」

 その娘が指を差したのは、マーチャンよりもひとまわり小さなロイヤルクラウンだった。頭に添えている。

「勝てたのですね。おめでとうございます」
「ありがとうございます! 私の憧れはいつでもあなた様です。2度と忘れません。その背中、まだ追いかけても良いですか?」
「はい。もちろん。では、お祝いをしましょうか」

 マーチャンはそう言って、自分の冠と交換した。

「門出です。あなたにこれを託します。いつか返しに来て下さいね。待ってますよ」
「〜〜ッ、はいッ!」

 耳がキンとするほど張り切った声だった。こうやって世代は移り変わる。例えウマ娘が選手として死んだとしても、憧れは遺伝子として受け継がれる。
 爪痕だなんてそんな冷たいものではなくて。もっと、ずっと、温もりに包まれている。

「おーい!マーチャン!」

 今度はスカーレットの近くから、よく馴染んだ声がした。ウオッカだ。フェンスに顔をくっつけている。俺たちに向けてブンブンと手を振っていた。今ではコーチの資格を取るために励んでいるらしい。頑張れ。

「よ! お前ら遂に対決か!楽しみ過ぎて眠れなかったぜ!」
「あったりまえじゃない! マーチャンも、今日はよろしくね。お互いにいい勝負をしましょ」
「はい。よろしくお願いします」
「なんだよ堅ぇな〜。俺が走れなかった分まで、ちゃんと1着獲ってこいよ」
「はい。負けられない理由が色々とあるので」
「あんたはどっちが勝つと思う?」
「そりゃまぁ、マーチャンだろ」
「ちょっとあんた!」
「ふふふ──」

 良い友達に恵まれたね。心の底から思い直す。俺は踵を返してトレーナー待機場所のパイプ椅子に腰をかけた。後は見守るだけ。のびのびと走ってこい。

 

     †

 

 LOVEだっち。最終巻で主人公はヒロインと結婚する。言ってしまえば、つまり、そういうことだ。多分、全部知ってる上で約束させたな、アイツ。
 ホント計算してるんだか偶然なんだか。結局先に読んだのはマーチャンで、終始ニヤニヤしてたからさ。うん、ね。
 まぁどちらでも良いか。俺はあいつから最終巻を受け取って、ソファにゆっくりと腰を掛けた。
 コーヒーマシーンの黒い機体に、陽の光がチカチカと跳ねている。表紙をうっすらと照らす屈折光。しおりの紐は血を染み抜いたように赤かった。
 俺のやるべきことは変わらない。専属レンズであり続ける。ただ、それだけだ。
 
 壊さないように、振り返る。
 壊れないように、前へ進む。

 

 

 

 アストンマーチャンの忘却ーfinー